非日記
DiaryINDEXpastwill


2008年03月22日(土) 菜の花の辛し和えがうまい。

この春先にのみ「菜の花の辛し和え」やら「菜の花のおひたし」「菜の花の胡麻和え」など、店頭の惣菜に菜の花が並ぶ。菜の花料理はこの時期にしかお目にかかれない。微妙な苦味があり、うまい。
子供の頃は菜の花は菜種油のためだけに栽培されてるのだと思っていた。しかしよく考えると、栄養価の問題もあるのかもしれないが、実際旨いかどうかだけの問題で、「食えない雑草」というのはそうそう無いのだ。春の七草だって現代視点では明らかな雑草が入ってるものな。かえって道端の雑草の方が、何者かの糞尿に塗れている可能性はあっても、畑の近くではないかぎり農薬とはまず無縁ではある。

そういえば、フキやツワが店に出てるのを見かけると、野山で自力採取してたものに比べて異常に太く思え、「故意に栄養をあたえるとこれほど違うのか…」と感心したところがある。
…でも固くてゴリゴリとコワいよ、あれ。
大人なんじゃないかと思ったんだが、ひょっとして「栽培」しててあの太さなのか、と。
「違うよ!萌えいずる春の旨みはこんなんじゃないよ!」と直感的に思う。将来性はあるが弱く柔らかく繊細な、しかしこれからゴリゴリ成長していく為の柔軟性をもち、弱さの中に強靭さを秘めた幼子を「失礼ながらちょっといただきます」とへにょポッキリ手折った感じがまるでしない。
いや、私は「選んで新芽を採れ。年寄りは筋張って食えたもんじゃない」と指導されてたのよ。「ただし新芽を根こそぎ全部は採るな。来年のために!」とも指導された。「ここはなかなかの漁場だった…」となると心のメモ帳にチェックしておいて、翌年も漁りに来るためだ。

菜の花はそのへんに幾らでも咲いてるのに、花が咲いてしまったら美味しくない。ブロッコリーと一緒だ。豊かさにダメになった人間の常として、ブロッコリーの花を咲かせてしまったことがある。黄色い花なんだよね!何故蕾は旨いのに開くと不味いのだろうか。菜の花は人が生やしてるのかもしれんし。店で売ってるのは高いよな。近所では一束四五百円もした気がする。
ちなみにカリフラワーの花を咲かせたことは無い。…てゆうか、あれはあの状態で花なんだろうか。白いあれ、凄く不思議なものに見える。個人的にカリフラワーよりはブロッコリーの方が旨いと思うし、ブロッコリーの方が栄養があるっぽく見える。色のせいだろうか。
人間の目には緑色のものは無抵抗の食えるものっぽく見えるんだよ。赤い色のものも食えるかもしれないけど、しかも食ったらたんぱく質で栄養価は高いんだが、赤色を獲得しようとしたら反撃されて自分が赤い血を流したり赤い肉をさらして死ぬかもしれないだろ。赤は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」カラーだから、危険・勇気・情熱・レベルは高いが成功報酬は高額をイメージしてしまうの。比べて人は緑色に無意味に癒されるんじゃないだろうか。
あ、でも爬虫類や魚介類の肉は白っぽいのがあるな。


>>
私が毎度ひっそりと見て和んでる車中の働くおばちゃん、おばあちゃん組合のなかに途中の電停から大抵一緒に乗ってくる二人組みのおばあちゃんがいるんだが、一人は中でもたぶん一番年上なのかもしれないな。どう若く見積もっても六十代ではない。七十代も危ない。しかし九十代まではいかないかも…て感じだ。顔立ちはちょっとツン、パリっとした感じの面影を残す美老女で結構オシャレだ。一番洒落者かもしれない。若い人のように目を引くほど奇抜ではなく、ごくありふれて地味っぽくあるのに、基本的にセンスが良くて垢抜けてる。いわゆる田舎の働くジジババって雰囲気ではない。「ちょっと綺麗な人だな」という印象だ。
通勤カバンも、小回りが利かなくなってきてるので両手が使えるようにかもしれないが、若い人が負うような上品でなかなかシックなリュックを背負って乗ってくる。この人を仮にキリさんとするが、キリさんは大分足腰にガタが来ていてステップを簡単に軽やかには上れないのだ。両手で上り口の両脇の手すりをガッチリつかみ(「このためのリュックか」と思う)、「うおりゃあ!」って感じで力いっぱい上って来ようとするが、歳月の惨さ、そう簡単には上れない。

バスや電車のステップは私らでも腿から足をあげなきゃいけない場合が多いからな。最近、バリアフリーを目指して車椅子用らしい床の低いものがボチボチ出てきたが、乗り物の乗降は筋力が衰えてきて、しかも現代の若者と比較して平均的に背の低めな高齢者にも割と厳しいものがあるのだ。思うに、こういうところで地味に時間がかかるので、たとえ乗降者がそれほどいなくても出発到着時間が少〜しずつ遅れていき、最終的にタイムテーブルが四五分遅れるのが既にデフォになっているきがする。

ステップを上がるのに苦労するキリさんを前に、毎度一緒に乗ってくるおばあちゃんの出番である。この人を仮にマンさんとしよう。マンさんは後ろから「それ行けー」と尻を押し上げたり、先に上がって「がんばれー」と両手を引いたりなどしてお手伝いをするのだ。先に乗っているおばあちゃんズも「がんばれー」と力の抜けた応援をしている。
見ててめっちゃ和む。

今から各々の職場に出勤するはずなのに、中には自分家の庭先から採ってきた花を新聞紙に包んで持ってきたりする者がいる(職場に飾るのかもしれない)。すると皆で「なんの花?」「○×の花でしょう?」「きれいねえ」とキャアキャアなる。
「一枝あげる」「わあ☆ありがとう!」きゃあきゃあ
そして今から職場に仕事に行くのに、裸の花枝を一本だけ握り締めてよろよろ降りていくのだ。そしてまた出発時間が微妙に遅れる。しかし和む。私の心がきゃあきゃあだよ。

そんな大層和むおばちゃん、おばあちゃんズなので、私は本読んだり外を眺めたりしながら、時々チラ見しては和んでいたのだ。すると先日こんな事があった。誰かが「まあ見て!」と興奮気味の声をあげたのだ。私も思わず顔をあげた。「わあきれいねえ!」「ほんとう!」とまた何かキャアキャアしている。私のナナメ前に座っていた、この人はキリさんでもマンさんでもないので仮にジャロさんとするが、このジャロさんも私の背中側、窓の向こうを見て、手は胸の前で組み、頬は上気して目をきらきらさせ、「わあーきれー」だ。「なんだろう?」と思うだろ。で、ちょっと後ろを見てみたら、

朝日だった。

朝日が昇っていくのを見て、しわしわがきゃあきゃあ喜んでいるんだ。この時間、確かに冬の間は真っ暗だ。だんだん薄明るくなってきていたが、とうとう日の出の時間になったという事だ。季節性のうつ病というのがあって、うつ病の原因は正確にはわかっていないが、明らかに冬の間うつ病を発症する者がいる季節性のうつ病においては日照時間が関係しているのではないかとも言われている。陽光を浴びなければ生成できない栄養素もあるし、体内時計は朝の陽光を浴びる事によって調節されるとも言う。生物である人間にとって太陽や陽光は単に象徴的なものではないし、またそういった生物的な原点を別にしても、辛い事や苦しい事が終った時、また終わりそうな予感がある時には「夜が明ける」とか「朝が来る」等と言ったりする。だから太陽を見て「なんだか…」な気持ちになるのもわからんでもない。
しかしそれにたいして「綺麗ねえ」だけならまだしも、ジャロさんは臆面も無くうっとりと

「幸せだねえ…」

とまで言った。
それで皆も「ほんとうだねえ」でうっとりだよ。
凄い。
和ませられすぎる。

敵も味方も一緒くたに血と汗と脂と雨と泥で汚れた戦場に日が昇り、暗がりに隠れていた惨状があらわになる。多くの仲間が死に、自分も人を殺した。気がつけば重症を負い、そして若く力のある時間は戦場で過ごすうちにいつの間にか過ぎていた。もう若くは無い。そう長くは生きられないだろう。立ち上がろうとしても、手をついて、まだ汚れていないきれいな場所など残っていない。何故なら、汚れているのは手の方だからだ。惨い戦場を平然と照らして昇る太陽を、それでもなおただ美しいと感じる心を守りぬいた老兵…、のような凄みを感じるね。「戦闘は終った。ぼくはまだ、生きていた」みたいな。


やぐちまさき |MAIL