非日記
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2007年02月20日(火) 月一の反省文提出。

職場で月に一度、できた分野できなかった分野などについて自己採点をし、自己目標(記述式)を提出し、先月立てたそれに関する反省(?記述式)を提出せねばならないのだが(しょーがくせーみたいだ)、これが面倒でたまらない。
帰ろうとタイムカードを押しに行った際に「……今日、何か締め切りがあったりするだろうか?」と確認して気がつき(そういうところは運が良いというか勘が良い)、慌てて書いて提出しようとしたが、慌てるほど何も思いつかない。
人が言うには「あんなんどうでも良いのよ。適当に嘘八百書いて出せば良い」という事で、私もさもありなんと思うのだが、しかしその適当に嘘八百というのが苦手なのだ。私は嘘をつくにもかなりの割合で事実を混ぜ合わせてしまう想像力に乏しい人間だ。「助詞助動詞と末尾が嘘」とか「まだ生きてる人間と既に死んでる人間が入れ替わってる」とか、その程度のささやかさであったりするんだ。成長過程でうちの中で嘘などついたタメシがろくに無いので(全力投球の正直者でJ子との間に嵐を巻き起こしていた)、とっさに嘘をつけと言われてもそう簡単にはつけない。「嘘でもいいから」と言われるとパニくる。
嘘!どうやってつけばいい!
とパニくる。
ただし嘘をつくとなれば明らかにバレていようが証拠を突きつけられようがあまり気にならない。相手が騙されてくれるかどうか、現実がどうかなど些細な事だ。じゃあ何しに嘘をつくのかと言う事になるが、つまり嘘をつくために嘘をついているのだ。
ともかくそういうわけで、「そんなに悩んでないで、適当にかっこよく嘘を書いておけばいいのよ」と人が言っても、私は真実を大げさに表現する事はできても、嘘八百を適当にかっこよさげに捏造するということはできないのだ。

よく情熱的に好んで嘘八百物語を書いてるだろうとも思うが、しかし物語を捏造するのとはワケが違う。そんな事を自分の人生でしようなどとしたら、まず私という登場人物の性格設定からつくりあげなければならない。しかし私は自分がどういう性格で、どういうものの考え方をするどんな人間なのかを自分で考えるのが嫌だから、○いや性格診断が好きなのだ。自分で考えなくていい。大雑把になされているのが多いので、絶対にこうなんだと思わされない笑って済ませられるところが良い。
さらに瞬間瞬間に流されて生きるのが好きで、「こういう人間である」と自分を固定してしまうのが嫌でたまらないので、○いや性格判断や心理テストなどを片っ端から色々やるのだ。色々やって混乱させてめちゃくちゃにして結論を出さないようにする。部分的に「こういうところはあるわね」「そういうところはあるわね」と満足するだけで十分で、しかし全体として「かくかくしかじかの人間である」と自分をキャラ立ちさせたくはないのだ。自分はこういう風に考える人間だとか、自分はこういう事はしない人間だとか自分という枠をつくって、その自分でくみ上げた「自分はこういうもの」という概念によって自分の感情や思考が縛られたくない。叩き込まれて縛られまくっているので、正直に言えばもう嫌だなのだ。

なんていうのかしら、○いで「こういうタイプです」と出たときに、「自分はこういうタイプなんだ」と思うというより、「こういうタイプでもいいんだ」と思う、というか。そういうところがあったとしても、それはそれで良いんだと思うというか。思考のタイプが「〜ねばならない。〜ねばならない」式なので、「〜でもいい。〜だったりして。〜なんちゃって」と、ちょっと余裕や猶予や余白が欲しいのよな。

生きているうえで「自分にはこんなところがあるんだ」と時々新しい発見をしていたいわけよ。さもなくば生きる気がそがれる。自分がどんな時にどんな風に感じどう考えるどう選択するのかが予めわかりきっているんなら、「もう別に生きてなくてもいいじゃないか」と思わんか?私は思うのよ。
自分がどうしたいのか、どうするのか、どう感じ、どう思うのかを眺めてるのが好きで生きてるねん。だから色々書くわけよ。
自分がどんな人間か、どんな人間でありたかったかなどよりも、その時その場で感じた気持ちと考えた思考と判断と決断とを肯定し大事にしたい。こうすべきだと思ったらそれを肯定し、間違っていたと思ったらそれも肯定したい。これこれが嫌だと感じたらそれを肯定し、やっぱりそうでもないと感じたらそれを肯定したい。それが生きているという事を肯定することだ、などと思ったりする。自分がどんな人間かは自分が決める事ではないと思い込んでいるっぽい。

まあな、つまりそういう形で私は他人を肯定したのよな。この方向性の他の追随を許さない抜群の利点は、「誰も私の事(私の気持ち・本当の私・ETC.)をわかってくれない」などという不平不満や発想が本質的には浮かばないところだ。まず「本当の私」を全否定しているので、寄って立つところがない。

こう書くと、私はまるで諸行無常の仏教徒のようだ。
私は観自在菩薩が好きだ。主に名前が好きだ。要は日本人なら誰でも聞いた事のある観音(かんのん)さまの事なんだが、なんで略しちゃったかなと残念に思う。なんたって名前が良いのに。観自在(かんじざい)菩薩は観世音(かんぜおん)菩薩とも言うが、この観世音菩薩という名前がまた良い。ラーゼフォンみたいで響きがかっこよい(アニメ)。シャンゼリオンとか(特撮)。かっこいいだろ。しかも字面がまたみやびで美しい。人は虚空蔵菩薩の方がカッコイイと言っていた気がするが、私は断然観世音派である。世音というのは要するにこの世のあらゆる人々の救いを求める苦しみの声らしいのだが、そんな恐ろしい話はともかく、音なんて字を入れられると和の心をくすぐる。大体実家真言宗なので、オンとかウンとか言われると耳なじみがよすぎて弱いのだ。オンバサラダン…とか直ぐ言い出すだろ。仏事で神妙な顔をして座っていてもサッパリわかってないのだが、しかし意味不明でも耳に残るねん。
真言宗のお経は坊さんは自分が何を言っているのかわかっているのだろうけれど、俗人のパンピーにはもはやイージーリスニング状態だ。聞いてるとなんだかなごむ…心地よく眠くなってくる。真面目な人に怒られそうだ。

覚えてもいないくせに般若心経が好きなので解説本をたまに読むのだが、いつも結構微妙に納得できない。般若心経は最近はやっていたが、あれはそんな可愛らしいお経だろうか?あの「無い無い」経が?確かに短いが内容が面白いし、仏教なら宗派は問わないのでオススメのお経ではある。
専門用語を使うので仏教の教えを齧っていなければ全然わからないのだが(それで私は専門用語を覚えられないうえに覚える気がないので、用語や意味の説明もしてくれる解説本を読む)、簡単に説明すると、初めから終わりまで徹頭徹尾「無い無い無い無い」言い続ける。仏教の理念を否定し続け、あげく「無いというのも無い」などと言いだして、とにかく徹底している。般若心経は誰がいつごろ書いたかわからないお経らしいのだが、非常に完成度が高く、無駄なものは一切省かれ、仏教のエッセンスが凝縮されているらしい。少なくともこの短いお経で森羅万象全宇宙について無い事にされなかったものは無いと言っても良いのではなかろうか。さすがは観自在菩薩と言う他無い。
そこまで徹底してどうしようと言うのかと思ったら、そのあげくの果てには、「…というような事なのであるが、そのような事はどうでもよろしい」という感じに終る凄いお経だ。
と、私は思っているわけよ。とにかく言ってる事が凄いことは確かだ。

仏教を物凄く勉強した物凄く信心深い人が、いっちばん最後にこの心経を読んだら、ガツンとやられるのではなかろうか。観世音菩薩に「愚か者め」と張り飛ばされるというか。そんでその「お勉強するのはよろしいが、その真髄がおまえはわかっておらん」とガツンとやられてる勉強家で優等生の弟子が舎利子なのよ。その実況中継のように見えるんだ。
だってよく考えてみましょうよ。これは現世利益で名を呼ばわば即座に助けに来てくれる観世音菩薩様が語り手なのだから、明日とか明後日だとか一時間後だとか修行したらなんて悠長な救い方ではないのよ。「聞いてわかればすぐさま」式の用法を誤れば相当危険な即効性の劇薬で来ているわけさ。そして自由自在に変化する観自在菩薩様なので、もちろんここでも舎利子にあわせた話をしているはずだ。だからこういう話になるんだろう。それで最後のギャーテイギャーテイ以降は、種を植えて水をかけながら「大きくおなり〜」な感じで、「ほらわかるでしょう。さあわかるでしょう。あなたはできる子です。できる、できる、ほらできた!」と誘っているところ。
と、思うんだけど。私は。きっとそうだと思うんだけどな。

人間は考える事をやめずに考え抜くとここまでたどり着き、そして結果的にはもとの場所に戻ってくるのだなと感心する。無駄かというとそうでもない。同じ事をするにしても出て行く前と戻って来てからの顔つきと心境が違うって事だろう。中国の昔話だったか、ある男が仙人になろうとする話を思い出す。
そういえば、ヘミングウェイの「清潔で、とても明るいところ」という大変短い短編で、最後の方にクリスチャンの祈りの決まり文句をパロっているところがあるんだが、そこを読んでこれは般若心経のパロディかと思った事がある。

それはともかく

月一の反省文をどうしてくれようかと思い、悩んでみたが、電車の時間は迫ってくるし、なんにも思い浮かばないし、いよいよ困った。

私は何でもかんでもウダウダしていつまでも手をつけず、限界まで放置し、締め切り当日まで忘れている事が頻回にあるが、「締め切り当日や前日など、ギリギリ間に合う限界値になって泣きながら乱暴に仕上げて提出する」という癖もあり、案外にスルーする事は珍しい方だ。例のタイプ別判断で、「期限って何?」になっていて大ウケした。大ウケしていては駄目人間から脱却できない。ここは恥を知るところだろう。私だって期限が何かという事ぐらいは理解はしているが、知識としてわかっても納得して身についていなくては駄目なのだ。

しかしそんな事を考えて現実逃避している間にも帰宅の時間は迫ってくる。

だんだん腹が立ってくる。なんだってこんな虚しいものを書かねばならないのか。この末端の皆が揃って「下らない」と断じ、適当にいい加減に書いている(まあ極稀には真面目に書いているものもいるのかもしれないが)レポートは、何を考えているのか知れないが毎月丁寧に集計され、年度末にいたっては総員の傾向と個々人の自己評価がグラフ化されて戻ってきた。毎月違う目標を立てているのに、よくなったも悪くなったも無い。月々で状況は変わるのに年間通してグラフ化する事になんの意味があるのか全くわからない。百歩譲って、定期的に自己評価することや、自分に目標を課して業務において注意を払う事は完全に無意味であるとは言わない。自分等の仕事は、言ってみれば普通のホワイトカラー系の仕事のように立案企画があって計画を立てて目標を達せいするなどというプロセスは全く無く、言われるがままのその日暮らしを絵に書いたような作業状態なので、時には冷静に我が身を顧みたり、小さな達成感を抱く事もあるいは意味がある。本来自分で勝手に行うことだが、しかしそのように「自主的に張り合いややりがいを持って精神的に健全に仕事をする事を企業として推奨しているのだ」と言われれば(こんな事は言わないが。聞けばこれを会社の上層に提出して自分たちがいかに一生懸命働いているかを見せて給料の値上げを図る所存だそうだ。さっぱりわからん。これを見せられて「おおよくやっているな。これは給料を値上げせねばなるまい」等と思う人間は頭がおかしい気がするが、しかしこういう事を言うのが直接の上司の管理職で現実に存在するわけなのだから、万が一無いとは言えないかもしれない。)、もしそういう道理だというのならば「そうか」と思うばかりだ。

が、それはそれとしてもだ

大体、社会学科の研究レポートでもあるまいし、個々の主観的な「自己評価」を総体としてグラフ化する意味が全く理解できない。どう考えても、「社員の仕事ぶりはこういう風になっている」という客観的資料にはなりえない。皆いい加減に記入しているのでそれも嘘になるが、せめて「社員はこういうつもりでいる」という資料になるだけだろう。「これだけの社員ができている」ではなく、「これだけの社員ができているつもりである」という結果だろうが。パソコンに入っていたソフトを使って遊んでみたとしか思えない。
そんな無意味な事に就業時間を費やしているから、本来管理職がやるべき仕事をやってくれないのだなと人々は怒りを通り越して呆れた。物笑いの種にするぐらいしか使い道の見出せない代物だったのだ。
特に無意味さや無駄を嫌う人は何度も馬鹿らしいと言い張っているのだが、そのたびに顔を真っ赤にしてヒステリックに怒るので手に負えない。

「これは一体なんなのか」と埋められぬ白紙を睨んでいるうちに、どんどん腹が立ってくる。
「矢口さんは気が長い。あんたは変だ」と言われるが、私は変ではない。怒るのにはキッカケが必要であり、腹を立てるのに時間が必要なだけだ。「なんか嫌な感じ。もこもこしてきた」とじわじわ腹を立ててゆき、まったりとした鬱屈を醸成し、初めコトコト中パッパで赤子が泣いても蓋を開けずに頑張ってしまうが、ある日ある時ある瞬間に、それまでは受け流し続けたささいな事で突如噴火して溶岩流を垂れ流すだけだ。垂れ流すだけ垂れ流すと、「そんな事もあったかしら?」で落ち着く。納音は山頭火である。地震計を設置してもらえれば地下で何が起こっているのかわかり、いつごろ異変が起こるか漠然とあたりがつけられるはずだ。漠然となのでいつキレるのかは私にもわからない。なるべく小さく地震を起こして歪を解消しようとしているのだが、マグニチュードが1違うだけで解消される歪みの量の桁が変わるのだ。

腹は立っても家に帰りたい。ブスブス腹が立ってくる。今までナンだカンだ言いながらも、これを提出せずに無視した事は一度も無かったのだが、今日という日がその時かもしれんと思ってみる。先にも述べたとおり、私は「自分はいい加減な人間で約束を守ったりはしない」とは思っていないので期限を守ったり約束を守ったりもするが、かといって「自分は期限や約束を必ず守る規律正しい人間である」とも思っていないので、状況に応じて突然破ってみたりもするのだ。さあどうしよう。早く決断せねば家に帰れなくなる。

「今月の反省をしろったって、今月の反省って、今月どんなだったかなんて一日一日一刻一刻が必死でちょっぴり痩せるぐらい汗だくで駆けずり回って、毎日今日もなんとか終ったと安堵しているのに、一体何をどのようにしたのかなんてろくに覚えてねえよッ!」

と心で吐き捨てたところで、「おお!これは反省じゃないのか!」と思い至った。おお良かった。危ないところだったが、なんとか反省できた。

今月の反省→「反省するどころではなかった」




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ところで昨日ふとフォルダの整理をしていたら、三四年前に一人でこっそり書いた二次創作文が出現した。「おおう懐かしいわね。そういえばこんな物も書いていたっけね」と思ってペロっと開けてみた。何年も一度も見ていないと、もはや他人の創作物も同然で照れや恥ずかしさなど無い。恥ずかしくないどころか、素晴らしく内容を忘れていて「これはどうなるんだ」と続きが気になる。何しろ好きなジャンルで好きなカップリングで内容を覚えてないのだ。暢気に「はぁん」と肘をついて読んでいたら、自分の書いた話なのにウケて笑ってしまう。思わず無心に読んでしまう。自画自賛になっていても問題無い。自分以外誰も読んでない。自分のためだけに書いたので、「これでもか!」と自分の趣味に走っており、つまり自分のポイントを突いて来る。しかも「なんだ割と面白いじゃないの」書いた直後より優しい眼差しになっている。

書いていた時分は「あまりにも無理やりの展開」とか「何故こうなるのかがわからない」とか「必要な部分が足りないのに無用な部分が割り込んでいる」とか「問題を提示してみたものの、解決に詰まってどうでもよくなったコジツケが明らかだ」とか「いかにどうしようもなくなったからと言ってオリキャラを出して誤魔化すのはどうか」等と「プロットはどうなっている!?(←プロットなど立てていない)」で散々腹が立ってムカついて、見るもおぞましい出来の気分でいたんだが(しかし勿体無いので削除はしなかったらしい)、他人が書いたものだと思えば、ズブの素人が情熱だけで突き進んだ二次創作によくありがちなささいな矛盾や自己中、ご都合主義に思え、この程度ならなんてことない気分だった。
あんなに嫌だったのに。

最後の方になってくると段々思い出してくる。確かこれを書いていた頃は、ちょうど兄ちゃんが死んでまだ親の方が落ち着いてない頃で、大家さんは息子が倒れて情緒不安定だしで、あっちからもこっちからも「もう生きる気力が湧かない」と嫌になるほど延々と訴えられ続けており、じきに死に別れる(失う)事がわかっていて僅かな時間を共に生きるという事について感情的にはどう肯定的に処理できるんかがお悩みだったのよね。肯定的に処理するというか、まあ色々。模索した結果なのよ。呆れた長さは。
最初は気を紛らわすつもりで軽く書き始めたのに、気がついたらそうなっていたのよな。だって死んだからさあどうしてくれようかと思うじゃないのよ書かずにはいられなかったのよ
気分はTMネットワークのResistance♪でSevenDaysWar♪だったのよ。七日じゃ書けなかったけどな。あとはBeyondTheTime♪でGetWild♪だったわけよ。

だからどう見てもコメディ調で始まった話がどんどんシリアスになっていき、かと思うと無理やり明るく元の軌道に戻ろうとしては挫折して悪化したりしながら、終盤は人の心が移り変わることや万物が永遠ではない事を「おまえは怖くないのか?本当に怖くはないのか?」と追求する場面を頂点にドシリアスに達し、何故か突如哲学な領域に入…りかけて根性で無理やり引き戻したねんな。命を雨粒に例えてみたり苦労してるよ。この最後らへんは確か仏壇と遺骨を背に「あんたパソコンなんかに向かって何勉強なんかしてるの?」「勉強なんかしてません。何もしてません。あっちに行ってください」と実家でこそこそ書いていたのよな。懐かしいわ。

忘れているのを良い事に次から次にどんどん読んでいたら、気がついたら五時間経っていた。誰にも求められていないのに、よくもこんだけ書いたものだと思う。しかもよくもこんだけ書いておきながら、このカップリングでは最後までついにヤらなかったところが凄い。呆れた。自分で書いておいてなんだが、ごっさ欲求不満だ。「一本ぐらい最後まで行ったのを書いておけよ!」とン年前の自分に突っ込んだ。しかもいいところまで行っておいて続きを書くのを止めてるのがある。そうだ、これは確か「とにかくこの話では最後までやらせよう。さもなくば私はイマイチ欲求不満のままだ」という心意気だったのよ。
おい!これからどうなるんだよッ!気になるだろうが!
この後はまた別のジャンルに走って燃え上がって、サイトで言うなら「取り扱いジャンルが変りました」だったんだよ、私の馬鹿!

これを教訓に、とにかく最後まで書くように努力しよう。いつか他人の書いたもののごとく平然と読めるようになるらしいことがわかった。そしてその時には途中で打ち切られている事に「なんだとこのやろう」と思うことがわかった。
夏の終わりに忙しくなってから放ってあるのとかあるんだよね。気にはしてるんだけど、単に時間が無くなっただけではなく行き詰ったというのもあったのよな。
う…ッ、しかもでも今書きたいの違うねんな。


やぐちまさき |MAIL