非日記
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| 2006年11月05日(日) |
やっぱりそうだったんだ。 |
苦節ン年、ついに確信を得る事ができました。今日が誕生日だという。 「五日が誕生日なんじゃなかったかと思うけど」 「五日あたり誕生日じゃないかと思うんだが」 ETC. この婉曲的な質問に(質問だったんですよ)、「確かに五日が誕生日である」の一言を本人も友人も誰も言ってくれなかったからだ。しかし今度という今度は、本人が「明日が誕生日」だと四日にはっきり言ってるんだから確実だ。ああすっきりした。 もう五日も終ろうとしているが、気分だけでも空中に向かって言っておこう。長生きおめでとう!
ちゃんと先月末から思い出していたんだが、それというのも、毎年できなかったとぶつぶつ言っている事が、今年の場合は夏の終わりには既にとうていできないだろうとわかっていたからだ。「今年も無理である。絶対に」と一日ぐらいに書いて諦めの気持ちを受け入れようかと思ったんだが、「今年こそ」なんて思っているのは世に私ぐらいなので、大人しくする事にしました。いつもそんな事構わず我がの思いだけを語ってるじゃないかとも思うが、それはそれ、これはこれ。この「それは私の中でだけのケジメのようなもので、他人の目に触れさせるものではない」という躊躇が、まだ誕生日記念物のはずであった脳内残り香の部分だ。 私の中では、既に「誕生日のお祝い」なんてものでは無くなっているんだな…という事がわかった瞬間でもある。私の中でナニになっているかというと、毎年十一月五日は「神林系のコンテンツをつくろうとしたものの、あえなく翌年の十一月五日までに延期する日」だ。 そういうわけで、今年も何もしない。鬼が笑いつつ、来年こそ頑張ろう。
それにしても、今年は調子が良かった。 日記には書かなかったが、ちゃんと十月の某誕生日にもきっちりメールが送れた。去年は忘れてて悔しい思いをしたからな。今年は私の誕生日を相手が忘れてくれていたので、それで相手の誕生日を私が忘れなければ一勝一敗で持ちこたえられると、指折り数えて待っていたし。「誕生日おめでとう」と送って「忘れてた」と返ってきたときには、「私はまだ現役で頑張れる」ととっても安心した。ただ相手は割りにぼんやりさんなので、ぬか喜びはすべきでないと改めて気を引き締めた。
今日は休みだったが、真面目にもお勉強をしていた。勉強になってるのかはわからないが、とりあえず数をこなしてみる。 遊びたい気持ちを抑えられないので、テレビをつけっぱなして誘惑を誤魔化していたところ(結局真面目にやってない)、全国消防操法大会とエアロビの大会をやっていた。
消防隊員ってかっこいいわね。 消防操法大会では、現場にたどり着いてから放水するまでのタイムを計っていた。それと手順がいかに正確かのようだ。芸術点は無いようだ。 家族や職場の皆だろうけど、応援に来ていて、ほのぼのする。実際に火事場に仕事に行くときには危なく、有毒ガスが出てたりするし心配するものなのだろうし、ついで医者やなんやらと同じで自分の存在意義をいきいきと感じて「活躍できる」のは他人に不幸(?)」があった時なのだが、こういう「大会」でなら、能力の高さを無邪気に喜べる感じがする。 方向が違うけど、何を撃つために訓練しているのかを考えずに、単に狙撃能力の高さに「凄いねえ」と感嘆するようなものだ。 何かを巧みにできる、満足できるだけ上手くできるってのは、なんだかんだ言って、それが何であっても自分の中では嬉しいものだと私は思うし。なんつか、仮に目的が達せられないとしても、手段を磨く部分での、目標を設置してそこに向かって努力する喜びというか。
特に後ろに映っている消防車が良い。なんとなく消防車が好きで、マンホールに消防車のイラストが描いてあるのを見るとなんとなしに嬉しい。職場の窓から赤い自販機と青い自販機が並んで立っているのを見ると、胸が高鳴って頑張ろう気分になれ、嫌な事があると並んだ自販機を見に行って「あはん、なんてステキな光景なのかしら」と自らをたばかりに行くのと同じ原因かもしれないが、いや、私は消防車はもともと好きなんだ。四角く、なんだか色々とゴテゴテついてるところが良い。見目が良いんだ。 消防署や消防隊員を扱った映画はあれど(恋愛映画じゃなくて)、思い返しても毎度消防隊員が火をつけているような気がする。おかげで物語中で消防隊員が放火犯でも驚かなくなってしまった。どうかと思う。他にドラマチックにする手段は無いのだろうか。それにああいう映画では、火の中に入っていく人をカメラが追いかけるので消防車の付近にいる人があまり映らない。結果的に消防車の活躍が注目されなくて悲しい。物凄く活躍しているはずなのに。 水を吹く車なのよ?すごいじゃないの。 私が思うには、火を噴く車の戦車などよりも後に開発されたのではないかと思うんだがどうだろうか。
そして初めてエアロビの大会を見た。 あんなに凄いものとは思わなかった。私の乏しい知識では、ラインダンスみたいに並んで足をあげたり手をあげたりする動作を音楽にあわせて延々と繰り返していたんだ。エアロビというと、「ダイエットの為にやる」ようなどこか滑稽なイメージだったんだが、本当はカッコイイものだったのね。 ちょうど太極拳のイメージに対する誤解に似ている。 老人が公園でえらくゆっくり動いているイメージしかもたなくて、拳法とは名ばかりで体操の一種だと思っていたんだが、テレビで太極拳の先生がやっていた演舞を見てビックリした。「本当はちゃんと実用的な拳法なんですよ?」とにっこり笑って言って、その通り、すごく早い。いくつか剣舞を見せてくれたんだけど、あんな勢いで切りかかられて、どうやって避けたんだろうと、人事ながら昔の中国人を心配した。今生きている中国人の何割か何パーセントかは、あの斬撃を避けた人達か、避け切れなかった人達の末裔なのだなと感慨深かった。
そして、何故日本の剣道は舞わないのだろうとちょっと不思議に思った。 そういえば、昔中国の学生さんが舞を舞って見せてくれたが、体操選手のようだった。動きに躍動感を与える華やかでヒラヒラした衣装を着て、くるくる回ったり飛んだり跳ねたりしていた。 比べて日本の舞踊は衣装も地味で、揺れる部分は袖ぐらい。それもヒラヒラと躍動感溢れるというより、ゆらゆら程度。比較して酷くのろのろと動いていて、このよく言えばゆったり、悪く言えば鈍い動きに頬を染めてトキメキを覚えた古来よりの日本人は凄いというか妙なんじゃないかと思った。 私なら日本の殿様や偉い人になって宴会をして舞ってもらうより(そういうところで遊ぶより)、中国の偉い人になって宴会をして舞ってもらったり雑技団みたいな人に芸をしてもらった方が断然ときめく。楽しい。 なんの知識も無くても、凄いという気持ちになる。日本舞踊を味わって楽しむには修練と訓練がいり、それ用の回路(美意識)をわざわざつくる必要があるように思う。そういう物に頻繁に触れられる身でなければ楽しめるようにならないんじゃないか、とか。そういう意味では、特権階級的で、ある意味洗練されている(されすぎた)とも思ったりするけど。 私は歌舞伎よりも能の方が好きなのよな。全然見ないし、わかんないけど、あの「場」をつくる雰囲気が。たぶん歌舞伎の方が面白いと思うけど、能の方が美しいとは思う。無垢な眼差しで見ると滑稽な気がするんだが、あのぎゅうっと空気を作る、場を構築する、引き伸ばされた緊張感というかが美しい感じだ。奉納の能なんか神社でやってたりするけど、そういうものだったんだろうと納得する空気がある。
で、エアロビ。 すごく飛ぶ。回る。体操選手のよう。いや、体操選手なんだろうか。フィギュアや新体操のフリーの演技を見ているようだった。 ストリートダンスだったかもそうだけど、ちゃんと全部、技に名前と難易度があって技術点と芸術点がつき、減点がある。長い名前ばかりだ。解説者はよく舌を噛まないな。
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