非日記
DiaryINDEX|past|will
どーして私はこう、いつもいつもくっつけた途端に、激しく面白くない気分になるんじゃろうな。「…つまらん」気分に。「終わった」という充実感とか爽快感すら無いよ。 して、橋本ナニガシによる評論みたいなものを読んでいたら、こんな事が書いてあった。内容は全然関係ないので、終らせる事に成功して惨めな勝利を得た私を抉ったそこだけ抜き出すと↓
<<ここで明白なるミスを二度冒している。(略)この描写は明らかな間違いである。何故かといえば(略、この登場人物は)こういう考え方、感じ方を絶対にしない人物だからである。(略)これは小説の作法としては致命的なミスである>>
ぐさぐさ(突)ぐさぐさぐさぐさ(刺) 針の入った茶を飲んだようだわね。 そうなのよ、同人二次創作(CP捏造)の無謀な蛮行(致命的なミスをあえて冒す)はここに始まるのよな。そして苦しみは始まる。素手で密林に分け入って、風土病におかされて熱に浮かされながら夢に見た楽土を目指すが如し。「ラピ○タは本当にあったんだ!」等と感激しながら、死に際の妄想やねん。
私は「絶対にこうはならない(この二人はカップルになりえない)」と密かに確信してるんだよ。「だから」、自分に向かって「いや、それは万に一つの可能性であってもありうる。可能だ」と証明しなければならない必要にかられて書かずにおられなくなるわけよ。 そしてくっついた瞬間に、「いや、ありえねー!」と絶叫する。そんな「いかにもありえない事」が何故起こったのかと言えば、そうなるべく原型の改変や改竄や破綻や異常や失敗が累々と山積みにされたからだ。カードでタワーを作っていって、頂上に完成の一枚を置いた瞬間、その虚偽の重さで瓦解する。
くっつけようと鋭意努力している最中は良いんだよ。 言ってみれば、「自分の事を好きになってもらいたいな」と思って、身奇麗にしたりプレゼントしたり耳に心地よい言葉で口説いてみたり態度で優しくしたり色々するようなものだ。そこまでは良い。しかし「それがために」「好き」になられては、駄目なのよ。 それでは自分以外の人間(対象)は存在しないに等しい。つーか寂しすぎる。
「くっつけよう」として、「その結果くっついた(くっつけた)」と感じるから(そんな風にしかやりきれなかったので)「何もかもが全部、全然駄目気分」になっちゃうんだよ。思うが侭にしようとして思うがままになったのが駄目なんだ。思うが侭になって欲しいと望んで思うがままの結果にならなかったなら、それを許すことはできたんだが。
私は切実に求めた対象(捏造カップル)を、求めた結果(カップル)にしたがために、捏造にすぎない事を、「ありえない」と確信している自らに明瞭にしてしまって、失った。 「こんな事になるぐらいなら、初めからくっつけようなんてしなければよかった!」というやりきれない気分に激しくなる。
人様の創作物(捏造)なら良いわけよ。それは私を「説得」しようとしているわけではない。それは「捏造された」のではなく、私が私自身を説得するために結論を先に出しておいて後は意図して妄想捏造したのではないという一点において明らかに一つの異なる事実なわけよ。作者による最初の世界とは別に、別の作者による「別の世界(パラレル)」として存在しうるわけ。それは妄想の世界ではなく、別の世界として私は見る。そこには原作とは異なる別のルールがあって、別の前提があり、それに準じているだけで虚構ではないのだ。原作を真と位置づけた時に、偽になるだけで。私が原作を知らずにパラレルを読める原因だ。その時の原作は教科書か、もしくは参考資料になる。 ところが自分で捏造すると、途端にそれは虚偽にまみれてしまう。
何が致命的に虚偽かというと、結論が虚偽なんだ。 例えば心理において言えば、「そういう内心はありうる」と思える。見えないだけで「ありうる」のだ。それはただ作者によって表現されなかっただけで、キャラが作者から独立して作品世界に存在するのであれば、ありうる。何がしかの事件やエピソードを捏造したとしても、それは描かれなかっただけで「ありえた」と思える。可能性の一つとして、それは描かれることもありえた展開だったと思える。ところが、結果として例えば「カップルになる」という「事実」を生じさせると、それは「ありえない」のだ。見えなかった部分(心理や感情や思考)は存在させることが可能だった。が、見えるものは存在させることはできない。
原作のあるキャラをAとするだろう。 AにはBという感情や思考が隠されて「ありうる」。そこで(A+B)とする。Aという原作のキャラにBという特殊な事情(特徴)を付け加える。 Aは、Cという事件を経験した「かもしれない」。そういう事実は、原作においてはまるでなかったが、しかし可能性としてはなきにしもあらずだった。そういう展開は「実際にはしなかった」だけで、「ありえた」。そこで(A+B+C)になる。重要なのは、ここまでではまだ辛うじて「A」という原型が含有されて存在してるという事なのよ。だいぶ変形してきてるけど。つーか、かなり変形してるけど。 ところが、そこでDという結果に至る。その時、A+B+C→Dになる。なんという事か、このDは明らかにAを含まない。Dという事実を得た瞬間に、「Dという事実を持たない」Aは、「Dという事実を持つA」になれず、「Dという事実を持つ、Aではないもの」になってしまう。なぜかというと、このAがDという事実は持たなかった事は私に自明だったからだ。であるからこそ、BとCはそこに付加される必要があった。
だから本当は「A+B+C」までで止めなければならない。だけど私は始めからただDに至らせるためだけに捏造してきたわけで。もし私が、Dを事実として持つAに至らせようとしなかったなら、AはただAでありさえすればよかったんだ。つまり私は書く必要はなかった。AをAのままにしておくためには、書いてはならなかったのだ。 せめて「A+B+C=D」でなければならなかった。つまり「心情はあり、事件はあった。だがそれが何だ、それでどうなったという『新たな』事実はそこに出現しない」という状態にして、そこで留めておけばよかった。 例えば、「片思いの状態が完成形」という事よ。「ある、原作において伏せられた感情や思考」があり、そして「ある、原作では描かれなかった箇所」があり、そしてその状態で、「原作において伏せられた感情や思考の変化」があり、そしてそこで終り。そこまでは全て客観的に「見えない」ので存在できる。
いや、私の目にはそれは原作に近似だ。どっちかというと解釈の問題だろう。あまりにも個性的にすぎる読み方をしているだけだ。それで満足するなら、なんの問題もない。
それはつまり結局どういう事なのか?というと、AにはBとCという付加があり、そして例えば相手のキャラA’にもCという「あったかもしれない」事件があったとする事はできても、それによってAとA’の関係は「変化をしない」という事だ。A’にも勿論、B’とCは付加することができるが、同じ理由でA’は「Dという事実を持つA’」という存在にはなれず、「Dという事実を持つ、A’ではないもの」にしかなれない。
いや、私は「変化」させたかった。 しかし変化させた時、それは変化したAではなく、「初めからAではなかったもの」になってしまったのよ。勿論それでも一つの話としては成り立つかもしれないのだけれど(注:中身が力技でこじつけられ破綻している私の駄目さ加減をオール無視すれば)、でもそれは、私がやりたかった事ではない。
…「変化」しなかった事にすれば、どうよ? Aに付け加える「ありうる」事情として予めDを含ませておいたらどうよ?つまり(A+D)にしてまうわけだ。これならば、Dという事実を付け加えておきながら、Aでありえる。 …それが可能なら、私は自分を説得しようとする必要(=書かずにおられない)はなかったんだわよね。私はそれを「ありえない」と思ってる。「ありえない」と確信するほどに、「あってほしい」と思った。「そうあった」なら、「そうあってほしい」とは望まなかっただろう。それはわかっているんだけど。 くるりーくーるりー♪ なんて切ないんだ。
…もっかい初めから遊ぼう。 A+B+Cまで楽しく捏造して、そして「ありえない」Dを出現させて、そこで一気にガッカリするという定められた道程を、しかし「これはDへ向かっているの!」と信じていられる(それは確かに向かってるのだけれど)希望のある間、やがて初めからなかったのと同じになる一時の快楽のために。だってマイナーなんだ。自分で遊ぶしかない。 …なんであんなにイイ感じなのにー!!! ああ!身もだえするー!
|