非日記
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2006年01月27日(金) 咲いた咲いた。

「枯れたから捨てろ」と言われていたカワヤナギを、例によって「だってまだ生きてるみたいですよ?」と、一月近くしつこく放置していたら(←逆らうな)、何の前触れもなく咲きました。すごい咲きっぷりです。
こないだまでの枯れ枝がどうした事か、零れるというようか溢れるように一斉にボコボコボコボコボコボコ咲きました。
…オマエってやつは!
「どんな魔法を使ったのですか?」と言われたが、魔法も何も、思いっきり放ったらかしてただけです。いや、私の特技=「何もしない」を使ったといえば使ったのか。私だって人間ですから、「何でもいいから何かしたい」衝動に駆られるときもあります。
何かしたい時には何もしない方がよかったり、何もしたくない時には何かする方が良かったりするのが、私の短い人生経験における法則です。それで何もしたくなかったのに、何もしないでいたら、見事に咲いたのがとても嬉しい。

調べてみたら、カワヤナギは川辺に生える植物らしい。流水に強く。
それで手折られたカワヤナギは無い地面を探して花瓶の中に根を伸ばしたんだろう。私はその根を見つけたので、枯れ枝のように見えてもまだ生きてるからと捨てがたかったが、かといって土は遠く、伸ばしてみてもどうなるものでもないので、それはいつものただの自己満足に過ぎないかもしれないとは思っていた。
それは純然たる偽善に過ぎず(何故なら私はその枝を手折った人間の仲間だ)、ただ、人が「もう枯れたから捨てなければいけない」と言うたびに、例えば自分を重ねて哀れんでみたり、もしくは、生きることに価値があると信じたり生きている事が強さだと昔人に言ったように、その価値を投影してみているだけかもしれなかった。ちょうど、老人がもう生きている事に意味は無いと言うたびに、自分か、あるいは自分の未来を重ね見て、それを否定する価値観をあいかわらず探すように。あるいは私はそのとき、人はお題目のように唱えるのに私には理解できなかった「命は尊い」というそれを、そのように言った他人に、私にもわかるように見せて欲しいのかもしれない。そこまで無事に生きて、そしていまさらに、実はそうではなかったと言って、信じて、あるいは証明して欲しくないんだ。
何故なら、いつも殺すことも死ぬことも容易い。もしそうするのなら、私は直ぐにもそうできるんだ。誰でもそうであるように。それを忘れた事は無い。人は例えばできないと言う。それが本当に「できない」なのか「しない」なのか、私にはわからないが、私はできる事を証明するためにしたくはない。それが何か負けたくないものに手ひどく負ける事だと感じていて、それがとても嫌なのは確かだ。

私は時々、もしくはいつも、馬鹿馬鹿しくて、まるで意味が無くて、何の価値も無くて、無駄か、ひょっとすれば、もしくは確実に有害な事を、なんとなくとってもしたくなるんだ。
私は時々か、もしくはいつでも、それをしたくなるんだ。もう凄く馬鹿馬鹿しくてアホらしくて、何の意味も価値も無い事に永遠ではない人生を費やしたりして、究極の自己満足を追求したくなるんだよ。「もう誰の目から見ても誰にも自己満足としか言わせない」みたいな。そういうビョーキをわずらってる。


そういうわけで、私はいつでも捨てられる所為もあって、馬鹿馬鹿しいと思いながら馬鹿馬鹿しいと思うほどに捨てがたかった。
そうしたら花が咲いた。
馬鹿馬鹿しいと思ってたことが、ちょっと馬鹿馬鹿しくなくなったので、ちょっと嬉しかった。しかしそうすると、益々捨てがたくなってきた。花はやがて枯れ、もっと何処から見ても立派な「ただの枝」になり、そのままにしておいても今度こそ間違いなく枯れるだけになるだろう。死体になって有機物が分解して腐臭を放つようになり、水に使ってるところからデロデロに液状化していくんだ。たぶんね。
ただ生きていて、まだ生きようとしていたから、なんとなくほっといたんだが、花なんか咲いたばかりに、悪い事に、死なないで欲しくなってきた。こういう事(気持ち)になるから、さっさと捨てて置けばよかったんだよ。しかしこういう事にならないかもしれないと思っていたので、何もしなかったんだ。では期待も無くどういうつもりだったかと言われたら、どういうつもりもなかったので困るんだけど。まさにいつもの、無駄な事をしたい衝動に駆られただけで。
困ったね。ゴミ箱に捨て難くなったじゃないか。

花が朽ちてもまだ根が生きていたら、そしてその時、まだ他の誰かに捨てられずにそこにあって、それが私の自由にできるようだったら、それを川の傍に立てて植えて、そうやって捨てようと思う。
ひょっとすると、私の知らないうちに捨てられてしまうかもしれない。それは初めからそうだった。
私は自分が何をしたいのかわからない。

ただ私は臆病者でケチでやる事と考える事がセコイので、生きててももう何の良い事も楽しい事もなく、何の意味も価値も無いと言うその人の前で、もう生きてる事に価値は無いからという理由で、まだ生きているその枝を捨てる事ができなかったんだ。もしその人が、「もう咲かないだろうから、そろそろ捨てないといけないね」と口にしなかったなら、私は普通に捨てていたかもしれない。それが私の仕事だったから。それなのにその人がそう言ったので、その人は別に我が身を重ねていたわけでもなく、ただ「枯れたから捨てないと」と思ったままに言っただけかもしれないのに、急にそれが酷く悲しいことのような気がした。
もしその通りだと言ってしまったら、とても困る。

その枝が花開いたのは、彼女の前にあり、彼女がそう口に出して言い、そしてそれを聞いたのが私で、おかしな具合に勝手に躊躇い、私がやる事に彼女が「捨てなさいと言ったのに」と文句をつけず、そして他のものも何もしなかったからだ。もっと多くの色々な事が関わっている。その小さな偶然の積み重ねが不思議よな。
大抵は、自分の関わった以上の先を目にする事も耳にする事もないし、私の関わった偶然の中には思いも寄らないとんでもない悪い結果になったものもあるのだろう。
矛盾して、偶然に関わるのが時々好きだ。


やぐちまさき |MAIL