非日記
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2005年09月20日(火) 見えないおばあさん完結編。(見えないおばあさん最終話)

いくら私だって、心の底の底の底の底から表層までまんべんなく「見えないおばあさんは実在…ちゅうか幽在している」と信じてたわけではありません。
ただ、その昔、私の叔父の一人がお盆深夜にテレビ放映されていた怪談映画を見ながらギャハギャハ笑い転げているのを指して、大婆様が「ああいうのが実際に祟られたり、幽霊に絡まれる人間だ」と酷評したので、戦慄した私は「良かった!アタシはお化けや幽霊がめちゃめちゃ怖い!だけどこれからも一生、お化けや幽霊を馬鹿にしてはいけない!心から信じなくなった、全く怖くなくなったその瞬間に『出る』!」と心に刻んで、生涯畏れ続けようと固い決意をしたのです。お目にかかりたくない一心で。
ちなみに件の叔父さんは、祟られたのかどうか知らないが、ここ二十年ほど行方不明だ。J子が言うには「アレはワルだから」だそうだ。そうね、悪い事をして物凄い大迷惑をかけられ「あんなやつ知ったことか」状態なわけでも、別段絶縁したわけでもないのに、叔父さんが行方不明であることは、不思議と親族の誰一人として自然体で気にして無いね…。「さあ?生きてるんだか死んでるんだか」で、田舎によくあるミステリーだよ。

それはともかく、そういうわけで、私の表層から底三段ぐらいまでは「幽霊を信じる」「信じない事は無い」「信じても良い」「信じてみるか」「信じなければならない」などにほぼ統一されています。
しかしながら、私は何かを速攻幽霊にしたりはしません。一応科学的考察をチョッピリしてみる。チョッピリしておいて、「というわけで、実物…というか幽物の幽霊ではないかもしれない」と仮定しておいて、「しかし万が一の場合を考えて、『幽霊である…かもしれない』という余地を残しておく」方針です。万が一そこらへんに幽霊さんがいらした場合にそなえ、その幽霊さんに対する「べ、別にアナタがいないって言ってるわけじゃ…!」的言い訳というか。

だって万が一いたら、いるのに「いない」って言われたら、すごく悲しいじゃないの。悲しいよ。
私だったら「いるもん!いるのに!」という悲嘆で悔しさと悲しさと絶望のあまり「なんだってやってやる」気になっちゃうよ。「今までは良い子の霊だったが、今日からグレてやる」というやつだ。悪霊デビューだよ。
「いるんだってば!これでもか!?!」でなけなしの霊力と言うか、霊の全力を振り絞って憑り殺しアタックとか。「私にはもう肉体は無い。だが、精神力だけで物体を物理的に動かしてみせる!動け!動かんか!動くんだ!」と気合のポルターガイストとか。
「どうして!?わ た し は こ こ に い る!」と号泣しながら殺害だよ。肉体があったら血涙を流したいところ。殺したかったんじゃないの。憎んでいたんじゃない。ただ、「そうだね。そこにいるね」と、嘘でもいいから「気持ちがわかる」と、せめて「わからないけれど」と、ただそう応えて欲しかったのよ。そういう気持ちならば、我が身のことのようにわかる。

見えないから無いわけじゃない。触れられないから無いわけじゃない。証明できないから無いわけじゃない。無いと信じたら、その瞬間に消えてしまう。
だって心はそうだろう。
私は幽霊と同じそんなものを、それでもあると、あるかもしれないと、あって欲しいと信じたんだから、あると信じた同じ理由で幽霊を無いと信じることはできない。

そういうわけで、見えないおばあさんはイルというかアルかもしれないと思いつつ、しかし私は、それで「というわけで、イル」とスムーズには行かないんだ。
「見えないおばあさんは存在する(かもしんない)」という前提を維持したまま、「しかし彼女が言うソレは、見えないおばさんではないかもしんない」という前提でも、当初から色々考えてみていた。

仮定零:「命の終わりに近づき、肉体の崩壊につれ魂魄が純粋さを増し、霊力が高まって、ついにナチュラルな霊界との交信を始めたが、認知症気味なので、色々変だと思わず、違和感が無く、不思議だとか異常だと気づいて無い」場合(例:彼女には霊が「視えて」おり、視えるがままに正直に口にしてるだけ。私が穢れきって凡俗)

↑この場合は、拝み屋を目指してるわけではない私には、考えなきゃいけない事も(例:私には霊力が足りない)、やらなきゃいけない事も(例:こんな仕事してその日暮らししている場合ではない。速攻、恐山あたりに修行に行こう)、当面は特に無いので、とりあえず、コレは棚にあげておいて。

仮定一:「脳の障害や精神の障害により、現実的には視覚的に見えてないモノを脳内のみで見ている」場合(例:幻覚や記憶の混乱)。

↑私のやる事は、医者に相談。とりあえず、脳外科や脳神経外科などの脳や神経関連か、精神科関係。

仮定ニ:「実際に視覚的にも脳内のみでも何も見えておらず、自分でも見えてない事がわかっているが、何がしかの心理で、見えているように演じている」場合(例:アタイをからかっている)。

↑私のやる事は、私なりに付き合ったり、気にしないこと。つまり現状維持。特になんもせんでいい。

仮定三:「確かに私には見えない『何か』を見ており、ソレをおばあさんだと思っている」場合(例:視覚に起こっている障害や異常を、認知症の脳で独自に解釈して表現している)。

↑私のやる事は、医者に相談。とりあえず眼科。

つまり、例えば
「見えない何物か」は実際にそこいるとしても、あるいはそこではなくてどっかにいるとしても、「しかしだからといって某彼女が『ソレ』『ソコ』と、今現に指しているソレは、その『本当にいる見えない何物か』だとは限らない」という方向だ。

それで私は当初から観察を続けていたのだが、この日記で続報を書いたあたりで「どうも左目がアヤシイ」と疑惑にアタリをつけてみた。

根拠は、「移動してもついて来ている」が一つ。これは、場所に固定された「何か」や「何かの影」などを見間違えてるという可能性が薄い、つまり眼球や眼の神経や視覚情報を処理する脳自体にに原因がある確率の高さを示している。ついでに、少なくとも「地縛」霊ではないことを示している。
そして「私の後ろや部屋の隅など場所を移動している」こと。これは「視線を動かし、視野を移動した際、眼球の移動にそって移動しているのではないか?」と疑われる。「どこにいるのか」と尋ねた際に、彼女が躊躇い、迷って、そして私の方を見て、それから私の方を指したからだ。脳や視神経の異常より、眼球があやしい。

さらに最大の決め手は、
「おばあさんは、豆腐のようで、白くて、やわらかい」
この証言だ。

白い「何か」を見ていて、彼女にはそれが「おばあさん」っぽく見えているか、「おばあさん」だと決めている。離れているところしか指さず、触った触ってきたとは言わないのに、「やわらかい」と思っているので、それは「きっとやわらかい。絶対にやわらかい」と見える「何か」だ。
白くてやわらかいので、豆腐を連想していると思われる。

私はなめるように観察して、やっと見つけました。よく目やにが堪って張り付く左の眼球の下方に、下瞼にそって「白くてやわらかくて豆腐のような」小さい目やにの塊が、眼球自体に張り付いていて、眼球の動きに沿って動いているのを!
それで「どうも左目に目やにが出やすいようです」と医者に通報したら、なにやら治療をしはじめ、続けていた。(注:少なくとも猫や犬などの動物では目やにが多く出るというのは、熱があるや目の病気など何かの病気が疑われる。自然な健康状態では、目が開かなくなったり、目につくほど目やにが出たりたまる事はあまりないよう)

私に出来ることは終わったので、見えないおばあさんが存在するかどうか、見えないおばあさんの正体がなんだったのか、霊界や霊魂は存在するかなどは気にせずに暮らしていました。
時々死に別れた人々を思い出したりしながら、難しい事は考えずに平和に暮らし、見えないおばあさんの事は忘れておりました。

ところが、それから約二週間後、

○「そこにおられたおばあさんは、家に帰られたのですか?」
私「…いえ?」
じっと見つめる。つぶらな瞳。治療の甲斐あって、曇りないつぶらな瞳。
私「…私は特に聞いてませんね。知らないんです。ひょっとすると、私の来ない間に、○さんが寝ている時に、お家に帰られたのかもしれませんね…」
○「そうかもしれませんね」
私「さみしくなりましたね」
○「そうですね」
私「…………(笑)…………」

それは、私だけの秘密…。瞳の中の真実。


まだ「いる」かもしれないが、それは私の管轄外だ。
それに関ずらわった時には、日記のタイトルは「新(真)見えないおばあさん」とか「見えないおばあさんS」とか「見えないおばあさんR」とか「見えないおばあさんネオ」なんかにしようっと。そうしようっと。


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