sasakiの日記
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こんな さみしい夜は 夢でも 見ながら 夜を過ごす 過ぎ去った昔の 友達のこと 夢見て アハハ アハハ 笑いながら 目をさます 僕もひとり 一人 一人 独りぼっち
いつか きっと君も 僕のこと思い出し 夜を過ごす 青春の光が きらめくでしょうか 夢見て
『うたごえ』という店に出入りしていたことがある。もともと、いわゆる、歌声酒場からスタートした店で、客同士が連帯してロシア民謡などを合唱していたようだ。尤も僕が行った頃はそういった歌声運動も廃れ、さてどうしようかといったところだったと思われた。僕はそういった店にほとんど興味見なく、むしろ嫌ってたほうだった。連帯とか団結という言葉に、70年安保の学生運動のいい加減さを見てきたので、インチキ臭さしか見いだせなかった。ただそのころ(1972,3年)になるとアコースティックギターを持った、若い、僕らのような奴らがススキノの色んな店(ライブハウスのはしり)を掛け持ちしてかなり荒っぽく稼いでいた。すごいのになると月収60万とか、ちょっと信じられなかった。一種のフォークバブル。 『うたごえ』もそういった人種が集まるようになり、かぐや姫や揚水、たくろうなどが頻繁に歌われるようになり、その歌い手をひっきりなしにマスターが捜すということになっていた。 歌わなくても良いという約束で伸治のバックでアコギを弾くことになった。人の唄を無定見に歌うことにはその頃から抵抗があったのだと思う。それでも何度か歌うことを勧められたがしばらくは抵抗をしていた。後になって2,3曲歌うようになった。オリジナルを歌うことは別に問題はなかった。むしろマスターは奨励していたムキもあったから、意地張らないでやればいいのに、何かに抵抗していた。 ギャラは一晩500円から1000円の間だった思う。白石平和通り13丁目までのタクシー代にもならず、終わるといつも豊平橋をギター担ぎながら渡り5キロはあったろうか家まで歩く。性格も暗くなるはずだ、実際。 すこしずつ店に慣れ、人になれてから曲を書き始める。 ある日店の二階で(二階がマスターと家族の生活空間になっていた。ようするに所帯)お茶を飲んでいると、「幸男君、昨日夢見てさあ?何がおかしいのか分からないんだけど、笑って目が覚めたよ。隣でおっかあ、気味悪そうにしてさあ。昔の友達が沢山出てきてただ、笑ってるんだよ。」。ふーんという感想しかなかった。床を伝って、下で歌っているデュオの唄が聞こえてくる。その時の正直な感想は、俺はまだ、昔の友達が夢に出てきてへらへら笑うほど年寄りじゃない、といったようなとりとめのない感想しか持てなかった。でも、夢の中で笑うということが引っかかっていた。多分その話を聞いてすぐ作ったんだろうと思われる。始めに聞かせたのがマスターだった。いいねといったことを僕は覚えているけど、マスターはきっと覚えていないはずだし、この歌を始めに聞いたことだって絶対覚えていないことは請け合ってもいい。 何年か前に一度ファクトリーの通路でばったりあった。店ははもうとっくにやめて悠々自適に暮らしているそうだ。 僕は時々あの店の二階の風景と、豊平川をギター担いで家に向かう明け方の自分の姿を思い出すことがある。 その頃、百章を抜けていた僕は路頭に迷っていた。
東京に行く前に決意表明の臨時号を出します。
sasaki

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