The Green Hills of Earth

日記内検索は目次ページにあります。
☆★CF-W2関連:「分解/HDD交換」 / 「キー清掃」★☆

2005年09月09日(金) 缶詰 / こうもりじゃなければ良いのですが…(9/10書き直し)

もしかして、今日は金曜日なのでしょうか…
覚悟はしていましたけれど、会社に二泊もするとは思いませんでした。それも、三日目の今日もこんな時間まで会社に居るなんて…

仕事に迫られて缶詰状態です。時々息抜きに皆様の日記は拝見することもありましたが、いつも拝見している数の1/10程度でしょうか。自分のページを更新する余裕なんて全然ありませんでした。来週もそんな状況が続くかもしれません。頭が痛いことです。

でも、二日も徹夜をすると本当に気持ちが高ぶりますね。でも、座っているだけで広げた資料が曲がりだしたり、踊りだしたり、パソコンがぐにゃぐにゃになったり…昔は二日くらい平気だったのに年を取ったっていう事なんでしょうね。はっ!そういえば、今までの私は「嫌味なくらい髪の毛が濃い」と言われていました。髪の量が多いのではなく、はげる兆候が全く見られないという事。ところが先日、ふと据わっている私の前に友達が来て「髪の毛薄くなったな」と言うではありませんか。そういえば、最近机の上に落ちる抜け毛の量が気になってはいたんですよ。大丈夫なんでしょうか。ま、禿げようが白くなろうが、私は自然体で行くつもりです。ええ、そのつもり…ドキドキ


こうもりじゃなければ良いのですが…

1994年に出産直後の長男を亡くした両親が医師らを相手取って8000万円もの損害賠償を求めた訴訟の判決がありました。この裁判で両親は「逆子だったので帝王切開を強く望んだのに医師に拒まれたため、結果として難産となって子供が死亡したのだ」と言うことのようです。「医師は両親に帝王切開か自然分娩かを良く説明し選ばせるべきだった」という事らしいです。
両親は「自己決定権」の権利を奪われたと主張し、東京高裁の医師側勝訴の判決を破棄して高裁に差し戻しを決めましたが、自己決定権云々ではなく、単に説明義務違反はあったと言うにとどめました。

私が言えるのは1つだけです。「バカにつける薬はない」という事。

あんたたちは、医師が患者や家族に説明をして、意見を聞いたとしても、死亡させた場合は「医師のくせに適切な判断をしなかった」と訴えるんじゃないの?

ジェット機に乗っている時、機長が何かの理由で死んでしまったとしたら、客はコ・パイロットなどを押しのけ自分で操縦をしたり、操縦なんてしなくて良いから「どうして機長が死んでしまったのか納得のいく説明をしろ」と騒ぐのは正しいでしょうか。そんな事はないでしょう。また、事後に「〜たら」「〜れば」で話をするのは野次馬の仕事ですし、そこで語られる「こうすべきだった」と言う話は、それの正当性自体が全く証明されていない希望論的なものでしかないのです。

このニュースの元になった長男が死んだと言う出産も、「逆子なら帝王切開すれば良い」というのは素人の私達が漠然と持っている知識(?)である訳で、医師はそのときの判断で帝王切開は危険だと思っていたのかもしれませんし、人の生き死にが掛かっている時に時間を割いて家族に「どちらを取りますか?」とのんびり説明している時間があったのか甚だ疑問です。また、説明をしたら「では妻の命だけでも助けて」なんて言われたとして、でも実は「奥さんのほうは助かる見込みが殆どないんだよなぁ。説明したのは奥さんは諦めて、子供を助けることに全力を尽くすからねって事なんだけど、聞いていてわかんないかなぁ」なんて思っているかもしれませんよね。人にはそれぞれ得意の分野があって、自分なりに得意なことを、全く興味のない人、知識のない人に伝える場合、「こんな簡単なこと」が意のままに伝わらないことにもどかしさを感じたり、全く誤解をされてしまう事があります。それでも、医師には世論の高まりから「説明をする義務」を後から背負い込んでしまいました。確かに今日初めてあったような腕の程も判らない医者に命を預けることになるのですから心配は心配でしょう。特に結果として家族を失うという事があった場合は落胆とともに、その意思が下手だったからじゃないのかとか疑問が湧くのも理解はできます。でも、「じゃあ、私が(触った事もない)ジェット機を運転する」とあなたは言えますか? できないでしょ。

今回のように「選択権を行使できなかった」と言う事で訴えると言うのは変な話ですね。どうして素人が「帝王切開すべきだった」とかそういう事を恥ずかしげもなくいえるのか、私はその面の皮をはいで厚さを測ってみたくなりますよ。
「医師に説明の義務がある」(患者及びその家族に)「選択権がある」というのは、その解釈が誠にもって中途半端だと思います。
医師はその仕事(命を預ると言う)の重要性から、自分の判断で仕事をすることが求められます。特に一刻を争う危急の時にはそれが重要なことです。そこに「報告の義務があった」というなら「命を救うことより説明をすることが重要、命は二の次である」と認めることになります。それが間違っていると言うのは明らかでしょう。「医師の説明」とは(危急の場合は)「報告」の意味合いなのだと取るのが正解なのではないでしょうか。そして、本人又は家族に相談なく最前の処置をした結果が、本人たちの意思とそぐわない事になっていたとしても、それに責任を求めるのはやはりおかしい話です。
任せるからには医者に本当に任せるべきです。そして任せたという事は、責任は自分も分担するという事なのです。そうやって安心して任せることができるよう、普段からかかりつけの信頼できる医者を確保しておくのが一番良い事だと思いますよ。

事後に「〜たら」「〜れば」で語ることが如何に愚かな事かなんて私がここで言うまでもなく明らかなことですよね。ところが素人で自分では何もできない阿呆が、自分のものになると思っていたものを「懸命の努力にもかかわらず」助けられなかったことのに、それを「奪われた」と曲解して、駄々をこねているうちに気が大きくなって神様にでもなったつもりのこの阿呆はどんどん調子に乗って訴えると言う暴挙に出ました。こういう事に鼻の穴を広げて得意がっているというのは本当に猿にも劣る愚劣で卑怯で幼稚な行為だと私は思います。そこまで言うなら、医者のところになど行かずに自分の手で自然分娩なりしたら良かったじゃないか。自分では出来ないと思ったから任せたんでしょう。だったらその責任はそこに任せた自分にもあるんだとわかるはずなんだけどねぇ。

本来なら、子供は助からなかったけれど、自分(の妻)だけでも助けてくれてどうもありがとうございました。と頭を下げて御礼をするものだろうに…

ま、こういう話が通用しないヤブ医者がいるという事も問題なんだけどねぇ…


目次(検索)前へ後へHomePage


リンク、引用はご自由に。画像は勝手に持ち出さないことを祈ります。
mail address
COPYRIGHT(C) Lunatic 2002-2010