2006年03月06日(月)
「東京タワー」を読んだ
読むと絶対にハマると思いつつも今まで触りすら立ち読みをしなかった「東京タワー」(リリー・フランキー著/扶桑社)。
遂に今日、昼休みに買った。
AERAに関連記事が載っていたことと、間慎太郎さんがこの本を修士さんに薦めたら修士さんが、「男はみんなオカンのこと好きやもんな」と言っていた、とブログに書いていたことが理由。
一冊しか無かったので、素早く手に取り清算。
色々会社がややこしくて相変わらずげんなりの日々ということもあり、定時で速攻抜け、風呂も夕食も手早く済ませて読書タイム。
1時間半で読み終え、放心状態。
「その日のまえに」も読みながら泣いたが、「東京タワー」は声を上げて泣きながら読んだ。
九州が舞台だし、福岡・佐賀・長崎は方言が似ていることもあって、自分に重ね合わせながら読めて、尚更泣けた。
帯の宣伝文に福山雅治さんが
>「九州のカァチャン達は、リリーさんのオカンみたいに強くて優しい人が多いんですよ」
と寄せていた。
考えてみれば、私の母も“九州のカァチャン”だった。
母が亡くなって1年ぐらい経った時、友達に手紙を書こうと便箋を探していたら、母ががんの手術で入院をした時に書いていた日記が見つかった。
無印の茶色の便箋を10枚ほどめくったところからそれは始まっていた。
私達の前では「パーッと取ってパーッと帰ってくるけんね〜」とか「お母さん、もうこれで恐いもんは無か〜。がんになったけんって、ガーンってばっかしとられんもん」など、非常にあっけらかんとしていた。
だが、便箋には一人で告知を受けてから入院が決まるまでの不安、症状を訴えていたのになかなか検査をしてくれなかったかかりつけ医への怒り、転移への不安、術後の不安、無神経な言葉を掛ける舅・姑への怒りと絶望、再発への脅えなどが切々と綴られていた。
ちっとも母の不安を分かってあげていなかったことに気づき、あらためて自分にがっくりした。
そして、毎日私のことが必ず書いてあった。
母の入院は高2から高3に進級する頃で、当時の私は(もう高校生だし、母もそこまで私を心配することもないだろう)と思っていたが、母にとっては高校生だろうが小学生だろうが、“自分の子供”であることには何の変わりも無かったらしく、心配することが一番いけないのに、毎日自分の病状以上に私のことを心配していた。
慕っていた教師が退職するので不安だろうとか、希望しているクラスに入れるだろうかとか、友達と同じクラスになってホッとしていたので自分もやっと安心したとか、とにかく毎日私についてあれこれ思いを馳せ、一喜一憂する入院生活だったらしい。
胃を摘出したので食事を摂るだけでも一苦労する身体になったのに、
「退院をしたらまずは弁当作りだ。どんなことがあってもこれだけはやる」
と書いていたりもした。
こんな風に、自分の身を削るように私を育ててくれたのに、育ててもらっていた頃はその凄さの1%も分かっていなかった自分が情けない。
リリーさんがこの本に書いている
>いつか本当にやってくる事。確実に訪れることがわかっている恐怖。ボクが一番恐れている事
は、私の元にはもうやって来た。
やって来た後の日々は、P383に「悲しみの始まりと恐怖の終わり。」という短文があるが、まさしくそれだ。
同世代ではまだまだ済ませていない人が多い中で、何故私が?と、時々その理不尽さというか不条理さに腹が立つこともあるが、“母親の死”という、人生観が根底から覆されるほどの強烈な体験をこれから先私はもうすることは無い。
だが、この体験ほど、済ませても何の解放感を覚えないものも無い。
覚えることは、後悔、虚しさ、何かに対しての怒り、堪え切れない追慕。
だけど、この先何があっても生きることについて<絶望>だけはしない。
母に2回目の脳梗塞が起き、“確実に訪れることがわかっている恐怖”に脅えて私は寝ている母の横でつい泣いてしまった。
目を覚ました母は、私が泣いていることに気づいたが、もう喋れなかった。
すると、動かせる筈が無い麻痺した右手でいきなり私の手を掴み、自分の心臓の上に置いた。
心音は余命宣告を受けた人のものとは思えないほど力強かった。
それは、生まれる前の私が胎内でいつも聞いていた音でもあり、母から貰った最後のメッセージでもある。
この音を私はあの時母から引き継いだ。
自分の都合でリセットすることだけは出来ないし、したくない。
そう思いながら、明日も生きよう。
仕事をしよう。
今日、社長が某業界紙に、私が所属する事業部を育てる気は無いと受け取れる発言をしているのを見つけ、すっかりうんざりしてしまったが、上がそのつもりなら、私は自分のために自分の仕事をしよう。
落ち着いて仕事したいのに〜。