つらつらきまま


2004年04月17日(土)
長崎の子ども

16日の最終便で実家に帰った。
 新しい生活が始まる前に、もう一度九州の空気を身体いっぱい吸い込みたかったから。
 スカイマークが満席だったら、ANAやJAL・JASでも帰りたかったので多めにおろしたけど、スカイマークで帰れたのでホッ。


指示通りにやると
 「自分で考えるということは無いの?」。

ならば、と、自分なりに考えたアイデアを少し入れてみると
 「何で指示通りにしないの!?」

 訳わかんね〜よ、プ〜。

 そんな生活に区切りを告げるため、せっせと新しい机に荷物を移動していた私に対し、元上司が最後に一言。

 「突然元気になったわね」

 「えぇ、お蔭様で」
 とは返さなかったが、そういうセリフが浮かんでくるようになった分、ちょっとずつ回復の兆しに向かっているのかなぁ、なんて思った。

4月16日。
 何も触れなかったが、松口さん誕生日おめでとう。

4月17日。
 父と一緒に、母のお参りをしに長崎へ行った。
 お参り後、平和公園と、原爆資料館に行った。
 ただただ、圧倒させられた。

通っていた小学校が被爆校だったし、教職員にも被爆者がいた時代だったので、私は割と平和教育は受けてきた。
 原爆資料館にも社会科見学で足を運んだことがあるが、改装後は行ったことが無かった。
 
子どもの頃に行った時より、資料の数が増えていた。
 そして、迫るものがあった。
 1945年8月9日11時2分まで、長崎の人は普通の日常を送っていた。
 その後もその日常が続くと信じていただろう。
 まさか、たった1発の原子爆弾で“普通の日常”が無くなるなんて、思いもしなかっただろう。
 何より、自分自身や自分と同じぐらい愛する家族が消えてしまうなんて。

遺骨も遺品も吹き飛んで見つからなかったので、家があった場所の赤土を
 “土に還ったあの子達がいる”として、形見に保存した両親の話とか。
 炭化した白米が詰まった弁当箱とか。
 40年も経って河原で見つかった、黒焦げの万年筆とか。
 被爆後、僅か2ヶ月で「おくんち」が行われたとか。

 当時の長崎に住んでいた人達の“いのち”と“息吹”が切々と伝わり、何度も目頭が熱くなった。

 何て切ない人達なんだろう。
 何て悲しい人達なんだろう。

 そして、何て強い人達なんだろう。

 59年前にあんなに何も無い焼け野原だったとは信じられないほど、長崎の山には数々の木や花が根付いている。
 海では魚や貝が多く獲れる。
 多くのいのちが一瞬にして失われたあの街に、こんなに沢山のいのちが戻った。 
 そしてまた、普通の日常を送っている。

“普通”は、多くの悲しみと犠牲と、(それでも、この先には必ず希望がある)と信じる心から生まれるものかもしれない。  




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