2003年10月13日(月)
完全に弱気モード
色んなことが不安になり、昨日は実に2時間も鹿児島へ長距離電話を掛けてしまった。
電話代が非常に気になるところだけど、お金で色んなもやもやを少しでも消すことが出来たら安いものではなかろうか、と。
なぜ鹿児島かというと、母の妹が住んでいるから。
年を取るにつれ、電話の声が母と似てきたので、母と話してる錯覚に陥れるんじゃないだろうかと思ったから。
電話が繋がった時、開口一番
「何かあった?」
ときかれた。
説明しようとすればするほど、しゃくりあげるだけで、中々声にならない。
断片的に、色んなことが辛くて色んなことにいらついていることをまず言う。
思うように仕事をこなせなくて、いつか
「あなたはいらない」
と言われるんじゃないかと怯えていることとか。
みんなの前で当り散らされる対象に私が選ばれるんじゃないか、とか。
知識を増やすことが強くなる第一歩なのに、どこから手をつけたら良いのか分からなくて、混乱していることとか。
主任やミカコさんとか、みんな優しく的確に仕事を教えてくれるだけに、それをこなせない自分が悲しいとか。
仕事が出来ないのか出来るのか全然分からないこととか。
自信が持てない自分が情けなくてはがゆいこととか。
色んな混乱ごとを泣きじゃくりながらとにかく話す。
おばは母のように聞いてくれる。
会社では当たり前ながらこんなこと言えない。
すごく甘えたことだから。
「徐々にやれば良いんだから。
歯痒くても焦る必要ないし、いっぱい失敗してもいいから」
という。
「頑張れないなら無理に頑張らなくていいから」とも。
そういわれると、頑張れない自分がとても情けなくなってきて、また泣く。
こういう堂々巡りが繰り広げられた2時間だった。
「もうすぐ11月が来ることもあるんやない?」とも言われた。
11月は母が倒れた月。
12月は母が亡くなった月。
13日は祥月命日。
3年前、色んなごたごたに巻き込まれ、心身とも疲れた私は母に
「全てを捨てて長崎に帰りたい」
と拗ねた。
母は
「どうするかは自分で決めなさい」
と突っぱねた。
結局私は福岡に留まって、なんとか事を解決させたが、母は知人にこういっていたという。
「あの子が初めて“逃げたい”と言った。
あの子が言うぐらいだからよっぽど辛いんだなと思った。
だけど、ここで受け入れた方があの子はあとでもっと辛いと思ったから敢えて突っぱねたの。
もし、もう1回逃げたいと言って来たら、迎えに行ってあの子の好きな料理を作ってあげるつもりだった」
私はおばに言った。
「もう1回辛いって言えば良かった。
だって…もう…食べたくても食べられないんだもん。
お母さん、…もういないんだもん」
亡くなって約3年後。
私は初めて人前で「母がいない」と泣きじゃくった。
3年前は、あまりに多くの人が泣くものだから、却って私は泣けなかった。
お風呂や布団の中などで泣きじゃくった。
それでも声を殺して。
一人っ子だった私は色んな辛いことや悲しいことへのはけ口は母だった。
それが出来なくなって3年目。
なんとか1人でそれをこなそうとしたけれど、今はそれがちょっと限界に来ている模様。
「泣きなさい、泣きなさい。
泣かないと声も出なくなるからね。
泣いていいよ」
と、電話口で叔母がいう。
母に限りなく似ている声で母がいう。
現状のぐちゃぐちゃした甘えといまだに癒えない強烈な喪失感が相まり、ボロボロ。
それでも、他人に少しでも吐けたことで、僅かに楽にはなった。
13日は仕事を片づけないといけなかったので、1日引きこもる。
2丁拳銃が出るらしいどこかの学祭へも行かず。
泣きたくなったら泣いたので、タオルはぐしょぐしょ、目は腫れまくり。
どうしたら良いものか。
そんな中、普段は見ない朝ドラを偶々見ていたら驚愕した。
いとし師匠がでているではないか!
いつの収録分かは知らないが、あのほっこり・飄々とした笑顔でスケート場の職員役をこなされていた。
呆然としながらも食い入るように見つめた。
昼の再放送分もチェックしてしまった。
これまた偶々途中から点けたワイドショー。
「余命が2ヶ月と宣告されたら」とインタビュー。
うちの母の3回目の命日まで奇しくもちょうどあと2ヶ月。
もし、3年前の今日、母はインタビューされていたらどんな答えを返していただろうか。
持病があったとはいえまさかあんなに突然逝ってしまうなんて思っていなかった。
でも本人は心の片隅ではいつも覚悟していたかもしれない。
すごくシリアスな答えをしていたかもしれない。
そう思うと切なくなり、とても見る気になれなくなったのでTVを消した。
秋が深まり冬の気配が近づく度に思う。
(なんでもっと優しくしなかったんだろう…。
なんでもっと一緒にいてやらなかったんだろう…)と。
取り返しがつかないことへの後悔ほど薄まらないことはない。
一方では思い出したく無い程の嫌な季節だが、一方ではこのサイトが生まれるきっかけともなったこの季節。
3年前の明後日、初めて2丁拳銃を見に行った。
母が亡くなる4日前は、ハリガネロックの漫才で元気をもらった。
些細なことの一つ一つが後の大事な支えだった。