1日雑記

2008年04月14日(月)

ミステリー小説を読んでいて
罪とは何か、犯罪とは何かとしばし考える。

法を犯したときに、犯罪と呼ぶが
法とは結構厄介なものである。
例えば、法は人を殺す事を認めていないが
法が人を殺す事は認めている。

死刑を認めていないところも在る――が、
認めているところもあるという差異こそが問題だ。

一昔前の、中国の特許権などでも良いが
あるところでは犯罪でも
あるところでは犯罪ではないという状況がある。

それなら一般的に法とは何かと考える。
目には目を――ではないが、
法は理不尽な……つまり一方的な不平等を許さない。
それを基本に、地域の文化、歴史から色づけしたものだろう。

さて、とりあえず、その法さえ犯さなければ
犯罪にはならないわけだが、
そもそも法とは社会的な秩序を守るためのものであり
それを犯した場合は社会的に咎められるわけだ。
どこかで聞いた台詞ならば
罪を憎んで人を憎まず。
反社会的な行動そのものに問題があるわけで
個人の罪とはまた別のところにあるのではないか。

例えば、犯罪的な思想、思考は忌諱されるが
それ自体は犯罪ではない。
逆に、これが犯罪になるのであれば
防犯という思想は成り立たない。
(犯罪的な思想を想定するわけだから)

よって、犯罪とは思想に伴う『行動』を咎めているのであり
人の思想までを咎めているわけではない。

では、人の罪とはなんなのか。

行動のする、しないという事が現在の境界線だが
そんなもので左右されるというのはどうなのか。

例えば、黒板の問題が分かるとき。
先生が「誰か分かる人?」とクラスに尋ねる。
分かるんだけど、なんとなく手を上げられない。

この時、ちょっとだけ、踏み出して手を上げる。

ちょっと緊張はするかもしれないが
一度踏み出してしまえば後は意外とスムーズだ。

少なくとも私にはそういう経験が何度も在る。

だから、行動のする、しないなんてもので
本当に罪の有無を決めるのは微妙な気がするのだ。
本質的な違いは無いのに、と。

別に、法は法として今のままあり続ける事に
不満があるわけでもない。
むしろ、行動のする、しないで切り分ける
今の考え方には大賛成だ。

が、どうしても
なんというのか、報われない気がするのだ。
悪い事を考えてしまう事に
罪悪感を覚えてしまう事が
すーっと続くことに。


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