連日分かりにくい話で申し訳ない限りですが……。 人の優劣について考えてみた。
優れた人と劣っている人。 その基準はなんなのだろうか、と。 ……いや、学食のメンチカツ丼が切れてて、 出来るまで数分待たされたんで何となく考えただけだったりするけど。
とりあえず学力、という言葉が出てきました。 頭の中に。 でも、全ての東大生は人間としてすばらしいか、と聞かれれば 恐らく答えはNOかな、と。 必ずしもいい人ばかりじゃないわけです。
んで、あぁそうか……色々な項目について ひとまとめにして人の優劣考えるから 分かりにくいんだ、と気付く。
学力は学力、人格は人格として それぞれに優劣が……って。
そこまで考えてまた疑問。 何故優劣をつけるのか、と。
これについては謎です。 人間の優劣という概念そのものに何の疑問も抱いていなかった事が 最大の謎です。
で、一応の結論としては 残念ながら、優劣について考えないようにしようとしても 「劣等感」を感じることがあるんですよ、人は。
劣等感ってものから優劣を自然なものとして受け入れてしまうような 感覚をもってしまったのではないかと。
ある意味必然なのかもしれませんね。 優れたものとそうでないものを判別するのは。 猿は本能的にそれをやっているわけですから。
そういえば、最近もう1つ疑問に思うことが。 湯船と蛇口と手桶の関係。
よーするに、湯船から手桶でお湯を取ることることありますよね? ……いや、ない人もたくさんいると思うけど。
あれって左手でやるか、右手でやるかってことです。
あんまり気付いていないと思いますが 生活している部分部分は、多くのことが規格化されています。 例えば、パソコンのディスプレの電源をちょっとみてみると 右側についてませんか? ……中央ってのもあるとは思うけど、ほとんど右。
例えば扇風機。 「切る」「弱」「中」「強」 恐らくは左からこの順番にならんでいるのでは?
……まぁ、それはそれとして 湯船にはそれがないような気がするんですよ。
母方の実家では、左側に湯船が位置するし 自宅では右側に位置します。 昔すんでた家も右。 友人宅では左。
でたらめなんですよ。
確かに、最近の風潮として 手桶を用いて湯を使うことは少ないかもしれませんが 昔からそれが利用されているならば 湯船の位置も規格化されていてしかるべきだったのではないかと。
それが規格化されていないことについて ひたすらの疑問を感じる次第であります。
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