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2015年07月22日(水)  あした生きるという旅、日々を生きるということ

内田英恵監督のドキュメンタリー「あした生きるという旅」を観て、いまとりとめもなく考えていること。治療法の確立されていない難病のALSを発症してから30年間アクティブに生きた塚田宏さんの、生きた証となった作品。

生きるか生きないかという問いを越えた(気づいたら越えていた)先の、生きることしか考えないというたったひとつの選択肢の中で、強い意志を持って生きるということ。
進行する病気と生きるご本人の辛さとか、一緒に生きるご家族の大変さとか、そういうことは当事者でなければ本当には理解できないと思うから、推測の範囲でしかないけれど。同時に、健康な人でもなかなかできないようなたくさんの旅を、しかもご家族や周囲の支えによって実現されたという、確実に恵まれた部分もあって。
彼の人生について、不幸だったとか幸福だったとか単純に言うことはできなくて、それはきっと誰の人生も同じなんだろうなぁ、と、つい自分を振り返る。

ただ生きている分には特に不自由がない私のような人間には、生きる自由も死ぬ自由もあって、それでもそんなことはお構いなしに、というか日頃は何も考えずに朝起きたら生きていて。THE YELLOW MONKEYの「パール」の、“不自由と歎いてる自由がここにある”的な、必死に生きなくても大抵のことは制限されずに気楽にただ生きている日本人の自分の日常は、たぶん喜ぶべきことなんだろうけど、じゃあそこに胡座をかいて漫然と生きているのはどうなんだろう、とか、かといって高い問題意識を持ち続けて何かを成し遂げようと生きることが自分にとって歓迎できる人生なのかとか・・・。
何の役にも立たなくてもとりあえず生きていていい、なぜかわからないけど生まれてきたからには理由なんてわからないままでも、というか理由なんてあってもなくても、死ぬまで生きてみましょうというスタンスを10代で固めてしまったせいか、30代になってもほぼ何の役にも立たない人間として生きている。それは、あしたになったら生きていないかもしれない、もしかしたらあしたという機会は二度と来ないかもしれないと否応なしに実感させられたら、何か変わるものなんだろうか。あるいは高橋優の「蝉」のように、“今日が最後でもいいと思えるまで歌う”ような、自分にとってやっておかなければ死ねない何か、みたいなものが見つかれば、生きることにもっと執着して貪欲に生きていけるんだろうか。

こういうのってそう短時間で答えの出る問いじゃないから、やっぱりまだぼんやりと考えてるだけなんだけど、この映画を観て、はっきり感じたことはある。それは一言でまとめるなら、たぶん、「出会い」を大事にするということ。
塚田さん一家がたくさんの人たちと積極的に出会っていったこともそう、高校のときの同級生が彼らと出会ってこんなに意義深く評価もされる、価値ある作品を撮ったこともそう。
彼女の優秀さや人間的な魅力は当時からのものなのだけれど、誰かがほかの誰かと出会って何かが生まれるという奇跡みたいなものの偉大さ、貴重さ、それを逃さない生き方の大事さ。なんだろ、悲しいくらい文章力がなさすぎて、こんなありきたりの感想になってしまった。

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ここからは、少し時間が経って考えたこと。
Total Locked-in Syndromeに陥ったときにロボットスーツHALは役に立てるんだろうか、とか、宮古島で眼の調子がいいということは温暖湿潤な気候がいいんだろうか、とか、ALS自体についてもいろいろ気づかされることはあった。(HALについては後から調べたところ、四肢用のほかにサイバニックスイッチというコミュニケーションツールが研究開発中らしいことがわかった。来年の株主総会で説明がなければ質問したい。)
中学生や高校生のときにこういう作品に出会っていたら、医師や研究者や、あるいは映画監督や、そういう職業を目指していただろうか。たぶん答えは否、というのは、きっと20年前の自分もこういう「考えさせられる何か」に出会っていたはずだから。それでも今ここにこの自分しかいないということは・・・かなしいような、諦めのつくような。
こんな自分を受け入れたまま、もう少し毎日を生きていく。いつか何かが変わるかもしれないと、ときどきぼんやり考えながら。


真 |MAIL