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2004年04月22日(木)  寝過ぎ/引き続き寝過ぎ/記憶と痴呆と芝居への考察

20日の21時過ぎに寝た。21日の0時過ぎに起きた。入浴。
1時過ぎに本格的に寝た。8時に起きた。朝食。
9時過ぎに寝た。13時に起きた。昼食。
トータルで14時間くらいは寝た模様。
これ以上育たれても困る。

これを書いたのは22日の午前2時頃だったが、
実は今日も3時過ぎに寝て11時半まで寝ていた。
育つとか育たないとか以前の問題だ。

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新宿で芝居を見てきた。

時間ぎりぎりに家を出て時間ぎりぎりにサザンシアター(タイムズスクエアの方)に着いたら、
実はそっちの紀伊国屋ではなくて、紀伊国屋ホールだった。
この間違いは、2度目だ。自分の記憶力の悪さに辟易する。
途中までは汗だくになって走ったのだが、新宿の街のあまりの暑さに負け、
タクシーをつかまえたら冷房が心地よかったところまでは良かったものの、
間違っても新宿駅周辺をタクシーで移動しようとしてはいけないと思い知らされた。
少し考えればわかりそうなものだが、人が多すぎて車が動けない。

そんなこんなで紀伊国屋ホールにたどり着いた。約10分の遅刻。
せっかく良い席を取っておいてもらったのに、入りやすい席になってしまった。
劇団一跡二跳に今年、友人が入った。その緊急初舞台。
彼女だけが目的ではなかったが、できれば今後も彼女を追っかけたい。

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 『声しか見えない』は、痴呆を主題にした芝居だった。
 舞台の左半分の部屋に不恰好に積まれた、大小様々な白い立方体。部屋の中は言わば「彼」の脳内、箱は「彼」の記憶だ。芝居の進行に沿って、積み上げられた箱が少しずつぼろぼろと崩れていく様が、頭の中で徐々にぼろぼろと抜け落ちていく記憶の感じをとてもうまく表現していた。・・・と言っていいのかどうか。当然見たことがないから何も保証はできない。つまりは僕のイメージする「痴呆」に、とても近い表現だったということだ。

 痴呆と言っても症状は様々だ(という知識を少なくとも僕は持っている)。だから、僕の出合った症例は多くの内のひとつでしかない。けれども、その一例は、僕に衝撃を与えるには十分だった。現実場面で痴呆の症状を目の当たりにして、僕は戸惑いを隠せなかった。「彼女」がどんな様子かはあらかじめ聞かされていたものの、それがそんなにも厳然とそこに存在することが不思議で仕方なかった。たった30秒の会話の中で、何度も繰り返される質問と答え。同じ質問が繰り返された瞬間、それまでの時間は完全にリセットされている。少なくとも、いま話をしている相手の中では。もしも世界に僕と「彼女」との2人しかいなかったら、どちらの記憶が正しいのか次第にわからなくなってゆくに違いない。けれど、そのことで悩むのは僕だけなのだとすると、やはり僕がいくらか‘正常’なのかもしれない。

 ほろほろ、ぼろぼろと、積み上げたものが崩れてゆく。はからずも長い年月をかけて積み上げられた記憶の山だ。こういう言い方はおかしいのかもしれないが、「自分の脳内を振り返ってみると」、記憶はたやすく薄れ、書き換えられ、閉じ込められ、時には完全に失われたようにさえ思われることがある。けれども、このような一部の混乱こそあれ、全体としてはこれらがそう簡単に秩序を失ってしまうとは思えない。
 実際には、そういう日がいつか来ても何ら不思議はないのだ。痴呆は誰のところにも訪れる可能性がある。そういう点では他の病気と大差ない。

 記憶が大きく損なわれたとき、僕というひとりの人間はどうなってしまうのだろう。「彼女」といると、確かに人間なのにどこか人間ではないようで、(彼女の場合は主にはワーキングメモリだったりするのだろうが、)記憶が人間にとってどんなに大きな意味を持つのか思い知らされた。

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ついつい余計なことまで書いてしまった。
一跡二跳の芝居は、観客に考えることを促す類のものだ。
長い目で見れば僕にも必要で、今の僕には不必要な類の、考えるという行為。


真 |MAIL