2004年1月26日早朝、神戸の祖父が心筋梗塞で急逝しました。 私は朝7時半頃の父からの電話でそれを知りました。 祖母が先週の金曜日に入院していないので、朝、母が祖父を起こしに行ったら、 電気もテレビもヒーターも全部、つけた状態で祖父は倒れていたそうです。 誰もが死の瞬間を看取ることが出来ない、そんな死でした。
祖父は長い間、パーキンソン病を患っていました。 祖母はそんな祖父を看病し続け、ついに病に倒れました。 父母と同居しているというものの、実際の世話は祖母がしていました。 母は食事を作ったり、家事をしたりという分担でした。 祖母が心筋梗塞で倒れて、一命を取り留めた後、お医者様からは もう祖父の世話を今までのようにすることは体の負担になりますから、控えてください。 と、言われたそうです。それを前日の夜に祖父に伝えた翌朝のことだったそうです。 母は「おじいちゃん、これからは私と頑張りましょうね」と覚悟を決めていました。 でも、元々、軍人でプライドの高かった祖父にはそれが耐えられなかったのかもしれません。 別に、「死にたい」と自殺したわけではありません。 世を儚んで、生きる気力を失ったわけでもありません。 祖父は亡くなる前の晩、父母と楽しくあんこう鍋を囲んだそうです。 祖母が入院した夜、千葉や神戸市内から駆けつけた自分の息子や娘とも会ったそうです。 誰も祖父の死の瞬間を見ていませんし、本人に聞くことはできませんから、 本当のことは解りませんが、私は祖父は「充分だ」と思ったのだと思います。もう、充分生きたと。 そして、もう自分の世話をすることが出来なくなった祖母に残りの人生を プレゼントしたのだと思います。 祖母は二十歳の頃から自分の意のままに何かをすることなく、 祖父にずっと尽くしてきたのですから。 不思議なことに祖父は祖母と同じ病気で亡くなりました。 祖母は一命を取り留め、3日後に祖父は亡くなりました。 私はそこに不思議な縁を感じられずにはいられません。 祖父は他にも動脈瘤など、亡くなる原因になる病気はたくさん、あったのに。 何故、誰もが予想することがなかった心筋梗塞で亡くなったのか。
祖母は祖父の死を未だに知りません。 告別式の日、祖母にそれを伝えようとしました。 でも「今、それを祖母に伝えても心臓が持ちこたえられないだろう」とドクターストップがかかりました。 祖母のいないまま、祖父は世に別れを告げました。 母と私は今でも祖母に嘘をつき続けています。 私が祖母であったならば、私たちを恨むだろうな。。。と思います。 60年間、添い遂げてきた人の最後を知らされずにいるのですから。 いつかは祖母はこのことを知らなければなりません。 その時、祖母は私たちのことを許してくれるでしょうか。 私だったら、許せないだろうな。
金曜日くらいにそれを病室で伝えましょうと主治医の方がおっしゃいました。 葬儀の日、たくさんの親戚が私に「お母さんを支えてあげてね」と頭を下げていきました。 一番、大変なのは母かもしれません。だから、私がしっかりしなければいけない。 いろんな事に想いをめぐらせ、鬱屈した日々がずっと続いていました。 今日は一人で祖母のお見舞いに行くつもりでした。 母を置いて家をでました。 その前にMilkちゃんと会って、会葬に来てくれた御礼も言いたかったし、お茶をする約束でした。 お茶をして、Milkちゃんと話をしていると、少し、固かった私の心が解れていくのがわかりました。 私自身も誰かに聞いて欲しかったんだなぁ。。。
今日は祖母のお見舞いに本を買って行こうと本屋に寄り、本を買いました。 これから一人でお見舞いに行くから、と言った私にMilkちゃんは「私も病院に行くよ!」 と言ってくれました。「でも、面会は家族だけって言われているし、いいよ」と断ったのですが 彼女は「だったら、むこうで待ってるから、一緒に乗せて行ってよ」と強引について来てくれました。 「ああ。。。きっと私を心配してくれてるんだな。」というのがすごく伝わってきました。 普通にしていたつもりだったけれど、私はどこか様子がおかしかったのかもしれません。 そんな私が一人で車を運転して、病院に行くのが危なげに見えたんだと思います。 私はMilkちゃんに甘えました。 時には「なんでこんな事になってしまったんだろう?」とか 「おじいちゃんが亡くならなかったら、今ごろおばあちゃんの回復だけを待っていられたのに」 などと思ったこともありました。 でも、こうして私を心配してくれている人もいる。 頑張らなきゃいけないと思いました。 本当に、ありがとう。
病院に行った帰り、Milkちゃんを家まで送り届けて車を走らせていると ラジオから「Jupiter」という曲が聞こえてきました。 その歌詞が心に響くのが解りました。 そうだ、「ひとりじゃない」よね。
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