リュカの日記

2005年03月06日(日)

多分、薄っぺらである事が、元々の俺にとっての本質なのだと思う。
俺の内面も、価値観も、ずっと薄っぺらいものであり続けた。
自分にとっての物事の価値も、善悪の観念も本当に薄っぺらいものであり続けたと思う。
人が苦しんだり、泣き叫んだりしている姿に興奮している自分に対しても、後ろめたさなんてものは感じたことがなかった。
物を盗んだり人を騙したり、に対しても同じだった。
自己嫌悪もなかったと思う。
ただ、「知られなければ問題ない」という意識だった。
性欲対象にはしていても、物質として汚い動物のように感じられている部分が強かったので、人に対して価値を見出したりはしなかった。
自分自身の持つ汚さ、卑怯さについても「バレなければ、知られなければそれでいい」という卑怯な価値観も俺にとっての通常だった。
自分が人一倍薄っぺらい人間なんだ、という事は自覚していたと思う。
何かを強く思ったり気遣ったりする事が美徳なんだ、という風潮がある事は、映画なり漫画なりの創作を読んだりするだけでも十分に伝わってくる。
強く感じる事が出来ない事は不謹慎で、それは最低な事であり、
ハッキリとした言葉として考えていた訳ではなかったけど、そんな意識は根付いていたような気がする。
他人の感情表現を見ても、どこか嘘くさいものばかり感じていた。
こいつらは、不謹慎だとか無神経だとか後ろ指刺されたくないものだから、こんな風に熱くなってる演技をしたり、他人を気遣ったり心配したりする風を装っているのだ、と感じていた。
実際に、そういう風に演じているだけの奴は多かったのかもしれない。
他人も自分も全部が薄っぺらいものに感じられ、漠然とそれは悪い事なのだと意識されていた。
他人を好きにならない事にも、ばつの悪さみたいなものを感じていたと思う。
が、4.5年前までの感覚。
一時期だったけど、俺は少年に対して凄い感情を持つ事が出来た。
現実の人間の言動から感じられるものとは違った、作り話に出てくるような「演技でない感情」を自分も持てたような気になった。
俺から見た他人の言動は薄っぺらく、こいつらが他人に対して感じる感情以上のものを、俺は少年に対して感じられているんだろうな、と感じていた。
でも、本当はそっちの方が俺にとっての特殊な状態だっただけで、やっぱり薄っぺらなのが本当の自分なのかな、と思う。
何かを強く思ったり感じたりする事が善い事である事を俺は知っている。(もちろん、卑怯さの伴わない道徳にそった感性について)
他の何かに対してのように、後ろめたさの伴う薄っぺらさを感じさせる事なく、作り物でない強い感情を沸きあがらせてくれる対象(少年)は、俺にとって凄く特別な存在に感じられた。
少年に対してなら、卑怯な言動をする事にも罪悪感を覚えるようになり、「タイプの子に対し、卑怯で汚くならないようにしよう」という意思も持てるようになった。
そういう子に対して、常に自分はまっとうで居たくなったと思う。
「むしろ、まっとうでなければならないのだ」という観念に変わった。
それが価値観。
全部が薄れだした今になっても、その価値観にすがりついている状態だ。
だから、感情が伴わない時も多々あるように思えるけど、それにすがりついているのは正しい事なんだと思う。
一度でも強く感じる事が出来た対象に対し、自分が不謹慎である事も他人が不謹慎である事も許せなかったりする。
薄れてる事も後ろめたい。
そんな感じだろうか。少し考えてまとめてみた。
考えてるうちに、どこかズレてきたような気もするが・・

そういえば、普通「これからどこか連れてってやる」となって、ご飯なり遊びなりに親が連れて行こうと言い出すと、子供なら嬉しくて喜んだりするものだろうに、自分は子供の頃から「俺はいいから、あんたらだけで行ってくれば」という感じだった。田舎に行くという時になっても、自分だけが家に残ったりする事が殆どだ。それは大人になった今になっても変わらない。
だから、ただ単純に反抗期どうこう、という訳でもなさそうだ。
自分の元々の本来は、やっぱり薄っぺらくて極端に盛り上がりが低い人間なんだろうな、と思う。
今日は午後4時前に目が覚めた。
生きているのがダルイ。何もしたくない。


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リュカ

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