風太郎ワールド


2003年03月15日(土) B教授

留学したアメリカの大学で、私は物理を専攻した。

実は、もうひとつ専攻があり、ジャーナリズム学科にもいたのだが、当初一年だけの留学予定だったので、虻蜂取らずを恐れて――ホントは、ちょっと息抜きもしたい ^^;――ドロップした。

さて、その物理学科で教えを受けた教授のひとりに、B教授がいた。専門は相対性理論。アインシュタインの最後の弟子のひとりだった。

おっとりして、ヨーロッパ訛りが抜けない英語で、ゆっくりと考えながら諭すように話す。

黒板の前で



↑クリックするとメッセージが変わります(ランキング投票ボタン)クセが妙に可愛かった。

ニューヨーク市に住み、毎週水曜日に飛行機でやって来ては、風呂敷包みのような荷物を抱えて、あたふたと遅刻してクラスに入ってくるのが常だった。金曜日まで連続3日間授業をし、金曜日夕方のコロキュアムに参加してから、また飛行機で帰って行った。

そろそろ引退の年齢で、私が授業を受けたのが最後の学期。私達は、彼の授業を受ける最後の学部生となった。その最後の授業。普通に終わるのが何だかもったいなくて、B教授に、授業をやめて替わりに話をしてもらえないかと頼んだ。タイトルは「アインシュタインと私」。B教授は快諾してくれた。

彼は、ドイツの大学で21才の時にドクターの学位を取得。当時、プリンストン高等研究所にいたアインシュタイン宛てに、大胆にも紹介状もなく手紙を書いた。自分は博士号を取ったばかりだが、研究者として雇ってもらえないかと。

聞いたこともない若者から突然仕事をくれと依頼を受けて、大学者アインシュタインもさぞ困ったはずだ。ところが、B教授の指導教官が世界的に有名な学者で、アインシュタインとも知り合いだった。そこで、アインシュタインから問い合わせがきた。君のところの学生からこんな手紙が届いたが、一体どんな人物なのか?

B教授の指導教官は、多分、彼は優秀で人物も信頼できるとでも言ったのだろう。B教授はアインシュタインから仕事をもらい、プリンストンで研究生活を送ることになった。

アインシュタインと一緒に研究三昧の日々は、刺激の連続だったと言う。

彼は27才の時、相対性理論の教科書を書いた。標準的教科書として、多くの学生・研究者に愛読された。私は27才の時にその本を読んだが、まだよく分からないところがたくさんあった。その後、彼は相対性理論の分野で、世界を代表する大学者となる。

B教授はユダヤ系。先の大戦のホロコーストでは、身内や知り合いに多くの犠牲者がいたはずだが、その話題について語ったことは一度もない。長らくドイツにも帰らなかった。何十年ぶりかで故郷の土を踏んだ時の思い出についても、少し悲しい表情を浮かべるだけで、ほとんど触れることはなかった。

そんなB教授だが、卒業後まったくお会いすることもなかった。最近たまたま母校のWebサイトを覗いたら、昨年10月に亡くなられていた。

少し巻き舌のやさしい語り口が、フラッシュバックで甦る。合掌。


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