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2009年06月13日(土) 意図把握のむずかしさ

ある大学のある授業で、毎年あるトピックに関する2種類のビデオを見せている。同じような対象を扱った報道番組を録画したもので、取材先もインタビュイーも被っているのに全然論調が違う作りになっていて違う印象を与えるというのがポイント。扱っている事象はその授業に直接関係しているのだが、むしろそれはどうでもよく、いかに私達がメディアの意図に翻弄されるかというメディアリテラシー的な比較教材として使っている。
内容は授業で扱っていることばかりなので既に前提知識はある状態で、まずNHKの番組Aを見せ、番組Aの取材先Bが後日ネット上で出した反論の抜粋を読ませ、さらに民放の番組Cを見せる。Aはもともと偏ったつくりになっているものの、これらの一連の作業をした後の感想としては「Aを見た時点ではAが正しいと思い、反論Bを読んだときはBの言い分ももっともだという感想に変わり、さらに対照的な番組Cを見るとある対象に対する印象がガラガラと変っている自分に気づいた」というのがこちらとしてはあらまほしい。
授業後にコメントを回収して見ると、大部分の学生が「Aを見たときはこう思ったけど、Bを読むと考えが逆になった、AとCは番組のつくりが違って印象が違った、よって片方のメディアだけを鵜呑みにすることはよくないと思った」というようなことを書いてくる。一部、Bの言い分もどこまで正しいかわからないとか、AもCも正しいことを伝えているとは限らない、とか一部しか伝えていないとかさらに穿った見方をしているものもある。
そこまでは想定内なのだが、少数ながら全然意図を理解していない学生がいる。AやCの是非を論ずるわけではなく、自分を観察してA→B→Cという流れのなかでどう考えや感情が変化したかを客観的に書くようにと言っているにも関わらず、AもBもどちらもよさがあるとかAも必要と思うとか、その番組自体の感想を長々と書いていたりする。出題の意図を理解していないのか、あるいは自分自身をメタに観察するということができないのか、いずれにしても
そういう学生は、普段のレポートもあまり評価が高くない。学部の格差も如実に現れている気がする。
同じ授業で、自分が取り組んでいるレポートに関して、簡単な発表とディスカッションを取り入れているのだが、所定の回数より多くやらないか?ともちかけたところ、やりたくない答えた学生が若干名。これらの学生の顔ぶれは、例のメタに自分を観察していなかった学生と符合している。たぶんなにかしらの相関関係があるのだろう。これを単なる怠け者というのは彼らが気の毒だろうと思う。


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