檸檬屋新宿,緑の回路

 今日もまた住枝さんは朝から飲んでいて、
昨日の停電の件で呼びつけた管理会社のトップを怒鳴りまくったらしい。
新宿−谷中−新宿−谷中へ行く途中で引き返して新宿。疲れているのにこれでは大変だ。

またしても「お好み焼きを焼け!」とか「俺の煮た筍を出せ!」とか言うので
私たちはビクビク。お客さんたちも慌てて「いらないですいらないです」。

 高橋玄監督のくれた「緑ちゃんの回路」メールをめぐってロンドン時代の友人Mと激論。

> まりちゃんの描くみどりさん像は、すでに本当のみどりさんではなく、マリちゃんが
> 「みどりさんはこうあってほしい」とか、「こうである」と決めたみどりさんになっているように私には見える。

「こうあってほしいというのはあるよ。緑さんはこうであるというのは無い。
多分こうじゃないかなというのはある。Mだってあるでしょ。
だけど緑さんはどうありたいの?というのが前提。」

> みどりさんが議論を不要としているといつ言った?
> 「彼女の回路では、彼女の回路が理解されることも必要としていない」というのは、
> 完全に間違った見解です。
> みどりさんは、常に理解したいし、されたいと感じて生きていると思う。

「そうだよねとも思うしそうかなあとも思う。確認したい。
緑さんは聞かれても答えないことがよくある。
一生懸命話しているようで答えていない。それはなんなのか?
あることを提案しても『嫌だ』というけれど、こちらに何故?とは聞かない。
自分が嫌な理由は一生懸命話す。それはこちらを理解しようとしていないから?
よくわからない。」

> 本物のみどりさんを知る人間なら、的がはずれているとわかる内容に対して、
> まりちゃんはどう思うの?

「明らかに違う部分には『間違っている』と言っている。怒りは無い。
よくわかりもしないのにあれこれ言われるのがアーティストなのでは。

重要なことは『回路は開かれているか、開こうとしているか』だよ。
それだけ、と言ってもいい。」

> まりちゃんや監督が作っているみどりさんじゃなくて、本物のみどりさんを
> 考えてみてよ。

「私はいろんな緑さんが見たい。もちろん緑さん自身が作っている緑さんも。
Mの緑さん像も面白い。」

> だけど、みどりさんの友人として10年も付き合ってきたまりちゃんが、
> 本物のみどりさんを見ていないんじゃないか?という疑問は、とても大きくなっています。
> まりちゃんが、最初に私にくれたメールで、そうではないよ、と言ったけれど、
> 私にはそう見える。残念だが。

「『本物の緑さん』というのがよくわからん。
私が否定したのは、私が『私=緑さん』とか、
『私の言うとおりにするべき』と考えている、ということです。
だから本物の緑さんを見ている!とは言えないし
本物を見ていないじゃないか!と言われても困る。

本物を見てからでないと物を言ってはいけないとも思わない。
間違ってたら『違うよ』と言えばいい。」

> まりちゃんのことを危険だと思うのは、たとえば、みどりさんがHPに名前を
> 出してほしくないとリクエストしたときに、それはできない、という反応をしたこと。
>
> みどりさんの解釈では、まりちゃんは、
> 1)アーティストはあれこれ言われるべきもので、みどりさんは
> アーティスなのだから公開されてもいいはずだ
> 2)HPのみどりさんは、みどりさんのことを書いているのではなく、
> みどりさんを通して自分のことを書いている
> というようなことを言ったらしい。
>
> でもね、
> 1)これは、マリちゃんが考えるアーティス論であって、すべての人が
> アーティストをそう定義しているとはいえない。
> &
> みどりさんはその定義には反対している
>
> 2)はよくわからない。みどりさんの話しか聞いていないから。。。
>
> まりちゃんが自分の立場からしか物を見ず、みどりさんの主張を、私はそう思っていませんだからそれには従えません、というスタンスでいるように見えるの。
> そのことが危険。

「1)私は緑さんの定義を聞いたよ。
私に反対なのはわかるけど、じゃあ緑さんの定義って?よくわからない。

2)日記は何を書いても『私のこと』を書いているのであって、
緑さんのプライバシー暴露が目的ではないし
全てを書くわけでもなく、書くべきこと、書いてはいけないことを
考えて書いている。全て私の責任に於いて。
名前が登場する人に対して聞く耳は持ってるよ。訂正もするし、配慮はする。

私は緑さんの立場については問うているし、理解したいと思っているよ。
緑さんだって自分の主張と違うことには従えないでしょう。

で、ゴメン、物分りが悪くて。
お互い『自分の主張と違うことには従えません』と言ったら何が危険なの?

私はもの書きになりたいのだから、
書きたい対象に『書かれたくない』と言われて『ああそうですか』
といって書かない方が危険だと思う。」

> 問題は、それがまりちゃんの定義で、みどりさんのものではなく、
> みどりさんがいやがっているのに、まりちゃんはその定義でみどりさんを
> 語り、他人にそれがみどりさんが納得している定義であるかのように
> 認識されていることが問題。

「私がアーティストを語るとき私の定義で語るのは当然でしょう。
他人は他人の定義で認識するんじゃないか?
私が緑さんを語っても『それでアーティスト自身はどうなの?』
って思ったりするんじゃないか?」

> みどりさんは「違うよ」といっているのに、マリちゃんは聞いていないよ。
> 聞かないようにしてるのか、本当に聞こえていないのか。。。

「聞いてる。何度も聞いてる。どこが違うのか、何で違うのか知りたいからね。」

> ホームページというツールが介在したことでも、問題が大きくなったと思う。
> まりちゃんのHPの上のみどりさんは、みどりさん本人ではないから。
> まりちゃんが定義しているみどりさんだから。

「問題は大きくていいと思う。何の問題も無いんじゃつまらん。
私の日記ですから当然『私の見た緑さん』であり『緑さんを通して語る私』です。
それを書くなと言うのは緑さんに作品作りをやめろというのと同じ。できません。」

まわるまわる緑の回路。これは閉じているんだろうか?読者の皆さんはどう思われますか?
2002年05月02日(木)

抱茎亭日乗 / エムサク

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