| 緑の回路 |
母に借りたお金で各種支払い。経済的自立は遠い。
緑さんをめぐるやり取りから高橋玄監督に
> 真理ちゃんの意見は、なんだか宗教の信者的に思える。
と言われた。よくわからないので説明を求めたら丁寧な解説をくれた。
> 状態はどうであれスピン・アウトした人間同志に共通の視座、シンボルを与えること > で関係性を強化するのが、組織論一般で、宗教的集団も例外ではない。 > > クローズド・サーキットの概念は、どちらかと言えば > 市場原理的に援用されるんだけども、今回の「緑ちゃん」のケースだと、充分にク > ローズド・サーキット(閉じた回路)が作用している。 > > 緑ちゃんが形成するクローズド・サーキットは確実に存在していて、そこを流れる電 > 圧が真理ちゃんであり、「M」さんであったりするはずだと思うけどね。 > > 僕が真理ちゃんをして宗教的と評したのは、なんらかの形、または方法で「緑ちゃ > ん」を記号化、もしくはシンボライズした結果、通常の人間関係以上に、意識を流れ > 込ませているからだと感じるからだね。 > > その電圧が無駄だとは言えない。 > でも、負荷はかかっている。
私は自覚して相当ぐるぐるまわっていると思う。面白いから。 「負荷がかかってる」というのはよくわからない。
> 人間の意識(殊に無意識)がどんな対象にも等質であることは残念ながら不可能なこ > とです。
緑さんだって区別はつけている。でもそれは肩書きによる優劣より、 「昨日今日の知り合いか、よく知っている友達か」 「今すぐでなければ駄目か、後回しにできるか」 とかが大きく作用しているように見える。
> 重要なのは、そこで回路が別の回路につながるか、回路は開かれるかということで > す。 > 回路は一度開かれれば、もう生きている限り(もしくは死んでも)果てしなく、見知 > らぬ、自分の価値とは共通が見出せない、嫌悪すべきものともつながり始めるし、快 > 適な存在とも果てしなくつながり始める。 > > それを求めない彼女だから、真理ちゃんの「放電」を疎ましく思ったり、羨望したり > するんじゃなかろうか。
緑さんが私を疎ましいと思っているかどうかわからない。羨望はしていないと思う。 しかし回路を開くことは多分求めていない。そう見える。 私は開かせよう、と空回りしているような気がする。
緑さんは個展の撤去、私はGW明けまで檸檬屋新宿で、なかなか会えない。もどかしい。
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2002年04月30日(火)
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