無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2006年02月27日(月) 「嫌韓」に狂わされた女/『幻想に生きる親子たち』(岸田秀)

 どうにも間が開いて申し訳ない限りであるが、福岡限定SNSである「VARRY」に参加して以来、こちらもほぼ毎日欠けなく日記を書いたりしているので、どんどん手が回らなくなりつつあるのである。ヘタに映画だの演劇だのマンガだののコミュニティを立ち上げたもんだから、管理人としては記事を更新しないわけにはいかない。参加者はちびちびいらっしゃりはするのだが、そんなに書き込みは多くない。結局、私個人のブログみたいになってしまっているので、「mixi」や「はてな」も合わせれば、実質、七つ八つ、日記を掛け持っているようなものである。しかもその日記、全部コンセプト変えて書いてるから、同じ出来事について書いていても意見が180度違うということにもなりかねない。全部の日記を参照している人にとっては(まあ、二、三人だけど)、どれが私の本音なんだ、ということになって混乱すると思う。
 けどね、どれが一番のってことはなくてね、人間ってのは社会的な生き物だから、立場変えれば意見が変わることだってあるのよ。二枚舌じゃねえかと言われるかもしれないが、そりゃ私の中でも意見がぶつかり合ってなかなかアウフヘーベンしないって事態になっているのだ。
 自業自得ではあるが、新しいもの、珍しいものには飛びつきたくなるのはもう私の習い性になってしまっているので、今更どれかをやめる気にはなれないのである。あ、でも「サイワールド」は結局使い方がよくわかんなかったから、時期見て脱会します(苦笑)。
 しかし、他の日記は全部「ですます」調で書いてんだけど、こっちはやっぱ書いててホッとするね。他人の思惑を気にしないで、好き勝手書けるから。mixiの方で友達をちょっとつついたら、手加減したにもかかわらずかなりへこんじゃったみたいで、全く気を使うことこの上ない。あっちじゃとても自由にモノは書けないのである(こういうこと書くとまた友達から「邪魔なら出てくよ」とか言われそうだが、そんな被害妄想なことを言うから書けなくなるんだってば)。
 こちらの「無責任」日記の方では「仏に逢うても仏を殺し、父母に逢うてもこれを殺す」覚悟で書いているのだが、「mixi」じゃ招いて頂いた人が何人もいるわけで、そういう人の手前、喧嘩をすることが本意ではないのである。
 今日は風邪で一日、仕事を休んでいるので、かえって少しだけ日記が書けた。明日はどうなるか分からない(苦笑)。


 ネットチェックで別にバトルを探し回っているわけではないのだが、映画評論家の町山智浩さんの『ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記』の2月25日の項で、映画『ホテル・ルワンダ』に関して、一般の人がブログに書いた感想を巡って、若干の応酬があったのを見つけた。
 正直、最近はあまりに馬鹿が多すぎて、この手の歴史認識に関する感想を書くのは鬱陶しくなってきてはいるのだが、そのブログ主さんの意見というのが、まあ何と言うか、ちょっと「ここまで馬鹿が堂々と物を言えるようになったのか」と情けなくなるような内容だったのである。
 きっかけは『ホテル・ルワンダ』のパンフレットで、町山さんが「日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ」と書いたことに、そのプログ主さんが「なんで、こんな文章が『ホテル・ルワンダ』のパンフレットに出てこなければならないの?」と疑問を呈していたことが始まりになっている。
私は最初、これはてっきり、迫害や差別・虐殺の問題に関しては、国や文化によって複雑な状況の違いがあり、かなりデリケートな問題を含んでいるから、たとえ似たような事件であっても、安易に引用すべきではない、と言いたいのかと思ったのだ。
 ところが、次に続いた文章がもう、「何だかなあ」だったのである。

 > まず、私は関東大震災時に朝鮮人虐殺があったかどうか、知りません。生まれてないから。
 > で、私は地方出身なので、例えば身内のさらにおばあさんが被災したとかそういうのもないわけですが、そういうことがあったという説が流布しているのは聞いたことがあります。
 > なんでも「朝鮮人が井戸に毒を入れている」という「デマ」が流布して、それを真に受けた民衆が朝鮮人を襲撃した、と。
 > しかし、何人の朝鮮人が命を落としたのか知りませんし、第一、大震災で逃げるのに必死な人がそんなことしている暇があるのか・・・。
 > それに、今の在日の人って、彼らの主張によれば「強制連行(等)」でつれてこられたんでしょ?
 > だったら、関東大震災なんて、強制連行より全然前じゃん。そんな時に、なぜ、朝鮮人が「虐殺」されるほどもいるのさ。おかしくない?

 「知らない」なら書くなぁ!
 もう歴史的知識が小学生以下であるにもかかわらず、殆ど根拠のない憶測で、「そんなことってホントにあったの?」と疑問符をつけるいい加減さも問題だが、それを堂々とこうしてあたかも立派な意見であるかのように披露できる無神経さがどうにもひどすぎる。無知そのものは罪ではないが、無知を恥だと思わないのは罪だよ、やっぱり。
 こんなバカ意見であっても、わざわざリンクを貼られちゃったので(注・リンクを貼ったのはこのブログ主さんが先である)、仕方なく町山さんは反論している。

 > まあ、それはいいとして、面倒くさいですが、わざわざこっちにリンクまでして挑発しているので、答えてみます。
 > まず、この人が書いていることを箇条書きにしてみます。
 > �ヾ愿貘膺椋匯�の朝鮮人虐殺は、「説」であって事実ではないらしい。
 (中略)
 > この人、ちゃんと国民の義務である中等教育を受けたのでしょうか?
 > �,蓮△匹Δ眛邉�大虐殺と勘違いしてるようですが、関東大震災の虐殺に関しては、それを否定する見解など存在しません。これは当時の日本政府と警察が止めようとした事件だからです。
 > 当時の日本政府や軍や警察は虐殺を必死で止めようとして、朝鮮人を救出して保護し、また虐殺をした日本人を逮捕しました。
 > 刑事事件なので、ちゃんと警察に事実として記録が残っています(日本人や中国人も間違われて殺されています)。
 > 被害者も加害者もかなり特定されていて、戦前の日本政府は被害者やその遺族に謝罪し、補償しています。

 これが「常識」である。
 「常識」とは時代によって揺らぐものだと仰る方もおられようから、「基礎事実」と言い換えた方がいいだろう。資料はいくらでも残っているし、刊行されている出版物や、テレビ放送で紹介された当時の資料も多々ある。これは「戦前の朝鮮人は差別されてなどいなかった」と称する昨今の「行きすぎた嫌韓者」(私は、北朝鮮・韓国には多々問題ありだと思うが、日本を全て正当化したがる馬鹿にも組する気はない)にとっては都合の悪い事実だろう。
 で、このブログ主さんはやはり昨今の「嫌韓」ブームに過剰に影響を受けたものか、さらにこんなことを書いているのである。

 > どこかにリンク貼られたのか知らないけど、こんな掃き溜めのようなブログを見ていただいて・・・感謝?すべきなのかな?

 まず、さっきも書いたが、「先にリンクを貼った」のは、こいつである。この時点で既に自分の不手際については棚上げである。

 > 「関東大震災で朝鮮人虐殺がありました」はい、じゃ、それが記された公的な文書の原本を直接、見た人はいるのかな?

 こいつにかかったら、「原本」を「直接」見たものじゃなきゃ、事実確認はできないということになるのだな。じゃあ私がテレビで見たことのある映像や、本に添付されていた写真なんかは全て加工されたり捏造された可能性があるから、信用してはならないということになるのだな。
 じゃあ、この人は多分、織田信長や徳川家康に会ったこともなければ、資料を読んだこともないだろうから、きっとその実在は疑わしい、ということになってしまうのであろう。こいつが底なしの馬鹿であるというのはこの点である。「実証主義」を極端かつ我田引水的に援用し過ぎているのだ。
 北朝鮮の拉致事件だって、50年経てば、「そのころ生まれてない」人間にとっては「そんなことがあったのは嘘だ」と言い張れるリクツで、こういうのを「バカ理論」と言うのである。

 > 「そういうことがあったと本で読んだ」という人、その本の著者がどうやって事実確認をしたのか、そしてその確認方法が正しかったのか、検証したのかな?
 > 「虐殺を見た人の証言を聞いた」というなら、その証人が本当のことを話しているとどうやって確認とったのかな?
 > もし、あなたが何らかの公的な書類をその目で見たことがあるなら。調査が適切に行われたのか、文書が捏造されてないか、検証しましたか?
 > どんな情報でも、自分が信じるだけならまだしも、他人にその情報を押し付けるのなら、その精度には責任を持つべきではないのかしら。 
 > あなたが信じているその情報、本当に正しいの?
 > そもそもなぜ「殺害」ではなく「虐殺」という表記なの?この表記がされている時点で、どちらか一方のバイアスがかかってると感じないのかな?

 論理のすり替えとはこのことで、ある事実に対して、それを「疑わしい」と主張するのなら、「その精度には責任を持つべき」なのは、疑念を呈した本人、つまりこのブログ主さんの方なのである。秦郁彦さんなんか、従軍慰安婦がホントに強制連行されたのかどうか、「自分が疑念を持ったから」、現地調査行ってるぞ? このブログ主さんはここでも開き直って「そんな面倒くさいことはしない」と嘯いて恬然としている。ほかにも興味のあること、勉強したいことがあるからと言い訳をするが、こんな態度の人間にマトモな勉強などできるはずもない。こういう「口先だけ野郎(女だけど)」が「嫌韓」連中には多すぎるのである(もちろん、もともと「親韓」も馬鹿ばかりだが、最近は「嫌韓」の馬鹿っぷりも目立ってきた)。
町山さんが「関東大震災時の朝鮮人虐殺は、『説』であって事実ではないらしい」と突っ込むと、「『朝鮮人虐殺がなかった』とは言ってないです」なんて言いやがる。
 言ってるだろうが、嘘つくなああああ! 疑ってかかるってことは「なかった可能性を主張する」ってことだろうがよおおおお!
 てめえ、「説」って言ってるのはどういう意味なんだよおおおお! 「説」ってのは、「一つの説であって事実とは断定しがたい」って意味なんだよおおおおお!
 ……ダメだ。こいつは日本語自体が不自由だ。自分が嘘を付いてるって認識自体が持てない既知外さんだ。
 で、この既知外、さらにいろいろ言い訳をした挙句、コメント欄が荒らされたことについて、こんなふうにこきゃあがった。

 > どこかの誰かさんのブログと違って、自分の商売の宣伝なんぞしとりませんし、都合の悪いコメント、イヤなコメントがついたら削除なんてしませんし、アク禁もしておりません。あげくの果てにコメント欄封鎖なんてことはやりません。
 > コメントの内容みると、本来は、ここに人を誘導している誰かさんのブログにコメント欄があれば、そこで意見交換されているはずの内容もかなり含まれているように思います。まぁ、ここのコメント欄、自由に使ってください。

 なんつーか、往生際が悪いって言うかよ、低レベルな皮肉を述べて、自分の無知についてはそっぽを向いたままケツまくって逃げ出しやがったんだな。
 自分から喧嘩吹っかけといて、旗色が悪くなると捨て台詞を口にすることを「負け犬の遠吠え」と称するが、何かその典型的な麗を見せられちゃったって感じだね。でもこいつ馬鹿だから、これで自分は勝った気になってるんだよ、絶対。

 思うに、町山さんもたとえどんなに腹が立ったとしても、こういう馬鹿は相手にしないで、無視しておきゃよかったよなと思うのである。
 どんなに意を尽くして説明したところで、人は結局、自分の思いたいようにしか物事を受け取らない。「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ」というのは確かに事実なのである。安易に「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」なんて軽々しく言っちゃいけない(笑)。言葉に力がないからこそ、それをあえて送り出す者の心の、受け取る者の心の「恐ろしさ」を、我々はそれぞれの立場で覚悟しなければならないのである。
 実際、この私の文章だって、マトモに理解してくれる人がいるなんてそんなおこがましいことは考えちゃいない。人間は「誤解しかしない」動物なのだ。同時に私も、誰かの気持ちが理解できたことがあるなどと、おこがましいことを言う気はサラサラない。我々は常にお互いに相手のことが「理解できた気になっている」だけである。

 『ホテル・ルワンダ』は前売券を買っているので、近日中に見に行くつもりである。件のブログ主のような馬鹿意見よりはマシな見方ができるんじゃないかとは思っている。


 『幻想に生きる親子たち』(岸田秀/文春文庫)。
 吉本隆明の『共同幻想論』は、我々よりちょっと上の世代くらいまでは必読書だった。私の学生のころにも文庫で改版が出たりしていて、友人もたいていは読んでいた。でもって、読んでた学生の大半がこれに「かぶれ」てしまったのは、世の中のコトワリをこの「共同幻想」という言葉が実に適切に言い表していたからである。目から鱗、と言うよりは、うすうす感じていたことを明確に言葉にしてくれた嬉しさ、「共感」を感じたと言う方が近いだろう。
 岸田さんの唱える「唯幻論」は、この「共同幻想」をさらに分かりやすく、しかもその根拠を「人間の本能が壊れているからだ」と説明してくれたことで、なんかもう、「ああ、世の中のことを理解するのにこれ以上の説明はもう要らないや」と思わせてくれた。今風に言えば、悩める青年たちへの「癒し効果」があったのだと言ってもいいかもしれない。何しろこの「唯幻論」を使えば、この世の謎をたいてい「理解」できてしまうのである。
 親子関係の崩壊、あるいは学級崩壊の原因は、「何のために子を育てるのか」「何のために教育が必要なのか」という価値観の喪失、即ち、共同幻想を持ち得なくなっていることが原因である、という指摘が、「ああ、なるほどそうだよなあ」と、「理解」できてしまうのである。厄介なのはこれからで、その「真実」が理解できてしまうのと同時に、この問題を解決する方法もない、ということも「理解」できてしまうことである。
 大家族制が社会を構成する単位として機能していた時には、親が子を育てるのは必然であって、理由を考える必要はなかった。けれども、現代、価値観を共有できない親は子供に自分のエゴイズムを押し付ける形でしか子育てができなくなっていると岸田さんは説く。それができなければ子は邪魔なだけだから、放任するか適当に育てるか殺すしかない。子を虐待する親と放任する親との間に、実はたいした差はないのだ、ということになる。
 「私たち親子の間にはちゃんと愛情で結ばれた、心の絆があるんです」と仰る親御さん、またそれを信じているお子さんも世の中にはおられるだろう。もちろんそれとて「二人の間に共同幻想が存在している」だけに過ぎないので、何かのきっかけでその幻想が壊れてしまう可能性は大なのだ。「今は幸せ」なのはただの「偶然」なのである。
 「そんな身もフタもないことを」と眉を顰める方もおられようが、これは決して「絶望に至る道」ではない。どちらかと言えば「初めから夢や希望を持たなければ、裏切られるショックも少なくてすむ」問題に近いのである。夢や理想を持つな、という言い方が「キツイ」のであれば、「あまり高望みはしないで自分の背丈に合った適度な夢を見ようよ」と言ってあげたほうがいいだろうか。
 親は子供が立派な人間になることを期待したって仕方がない。子供はなるようにしかならないと思うことである。「躾をするな」ということではない。親は結局、躾をすることしかできないが、躾の効果が上がらなかったとしても、それは「運命」だと覚悟するしかないということである。もし万が一、子供が立派に育ったとしてもやはりそれが「自分の躾のおかげ」だなどとは思わないことだ。それも結局は偶然に過ぎない。
 子がマトモに育っても、育たなくても、そう思えば「救い」にはなると思うけどどうかね。

2004年02月27日(金) 舞台『GOOD』と迷い道
2003年02月27日(木) 彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明)
2002年02月27日(水) さらばウルトラマン/『よろずお直し業』(草上仁)/『クロノアイズ』5巻(長谷川裕一)ほか
2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)



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