無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月21日(日) 終わらない歌を歌おう/映画『リンダ リンダ リンダ』

 『仮面ライダー響鬼』二十八之巻 「絶えぬ悪意」。
 こないだからチラッと出ていた和服姿の謎の男(村田充)と女(芦名星)、まあ童子と姫と同じ人が演じてるんだけれども、どうやらこちらが「ホンモノ」らしい。男も女も自分の声で喋ってたし。黒服に白服の「クグツ」(「傀儡」という意味かな)も同じ人だったから、つまりはこの二人が作り上げたクグツが更に魔化魍を作り出すというシステムになってねみたいね。このヒトたちは、先祖代々そういうことをやっとるんかねえ。それともこいつらはヒトではないのか、正体は武内宿禰か?(もちろん諸星大二郎のね)
 今回、試験管の中に蜘蛛と液体を入れて「土蜘蛛」を作り出していたけれども、えーっと、この方式だと、ヤマアラシとかテングとかどうやって作ってるんだろうね? ドロタボウとか、元は何なんだよ。もちろんこういうツッコミは怒っているわけではないので誤解なきよう。
 今週も勢地郎は出なかった。下條さん、ただの夏休みだよね?


 夜、キャナルシティで映画『リンダ リンダ リンダ』。
 ファンタジーやSFの好きな人の中には、リアルな物語、日常の物語を必要以上に毛嫌いしてしまう人がいる。曰く、「映画や小説の中でまで、現実を見ていたくない」。
 その気持ちは痛いほどに伝わってくるのだが、完全に現実性を拒否した物語が面白いかというと、そうでもないからことは簡単ではない。徹頭徹尾「作りもの」だと、今度は荒唐無稽すぎて感情移入がしがたくなるものだからだ。リアル:ファンタジーの割合は、5:5から7:3くらいまでがちょうどよいように思う。

 まあ、なんで、こんな話を前フリに置いたかというと、「文化祭前日に、突如バンドを組むことになった女子高生四人が、ブルーハーツをコピーして猛練習を始める」というストーリーが、粗筋だけはよく似た『スウィング・ガールズ』と違って、「適度に作りものめいたところの少ない」物語になっていたことに驚いたからだ。
 説明するのが難しいのだが、「リアル」だということは、できるだけ虚構を排することである。しかし、虚構を排すれば、確かに現実的にはなるものの、物語としての面白さを減殺してしまうことだってある。実際、この映画は「ドラマチックな要素」を極力削除しているために、全体的なストーリーや個々の描写は、かなり「つまらない」のだ。では、この映画を私が「駄作」だと考えているかというと、決してそうではないので、話が難しくなるのである。日常的な退屈な描写が続くのに、少しも退屈ではないのだ。
 似たようなことをしげも感じていたようで、見終わったあと、「つまんないけど面白い」と、なんじゃそりゃ?な説明をしていた。しげは以前見た鴻上尚史の舞台『リンダリンダ』に不満を持っていて、それとの比較も念頭にあったようである。

 主人公の四人がバンドを組むようになったのは、全くの偶然である。
 もともとは恵(香椎由宇)、凛子(三村恭代)、萠(湯川潮音)、望(関根史織)、響子(前田亜季)の五人がバンドを組んでオリジナルの曲で出場を予定していたのだが、ギターの萠が左手に怪我をして参加できなくなった。凛子がそこで代役を立てようとしたのだが、そこでその冷徹さに反発した恵との間で諍いが起こり、バンド自体が空中分解する。恵は、望と響子にそれでも出場すると言い張り、「ブルーハーツのコピーならあと三日でも何とかなる!」と、もう一人のメンバー・ボーカルを探し、練習を始めるのだ。
 物語が転がり始める前のここまででも、この映画は数々の「リアル」を積み上げて構成されている。女の子同士が、この程度のつまんない理由で諍いを起こしてしまうこともそうなのだが、周囲の人間たちが(教師も含めて)彼女たちの関係修復に手をこまねいている、いや、手を出したがらないでいるその人と人との「距離感」がまずリアルだ。
 彼らはみな、仲がいいような、けれどもそれほど親密でもないような、微妙な関係にある。実際に、高校時代の友達関係なんて、この程度の「擬似友人」みたいなものが殆どではなかろうか。実のところ、本映画中で語られるとおり、喧嘩をしている恵と凛子の方が、「魂」は近かったりするのだ。似たような性格の者同士が反発してしまうのも現実によくある話である。
 これらの設定は、物語の後半になるにつれ、じわじわと「効いて」くることになる。それは、彼女たちが演奏曲に「ブルーハーツを選ぶ」という「リアルさ」において、この映画の成否が決定してしまったと言ってよいほどの効果を生むことになるのだ。

 ブルーハーツをやる、と言い張る恵に、凛子が「やって意味あるのかな?」と疑問を呈する。これは「ブルーハーツが嫌い」というよりも、「コピーバンドに意味があるのか?」という問いかけだろう。
 ところがこれに恵は「別に意味なんかないよ」と返事する。意地っ張りでそう言っただけだろうが、「意味がなくてもバンドする」というこの姿勢もまた実にリアルだ。言っちゃなんだが、高校生なんてみんな馬鹿である。しかしこれは単純なワルクチではない。馬鹿が取り得のようなもので、馬鹿だから何も考えずにやりたいことをやれるし、意味なんてなくても気にならない。無茶も無謀もし放題である。そこにあるのは「熱さ」と「勢い」だけだが、それで全然構わないのだ。
 しかも選曲があの「ブルーハーツ」だ。
 ブルーハーツは、本人たちが歌ってるのを見ると、これはもうただの不良ソングで、これにハマるやつらもたいていはただのヤンキーだ。
 ところが、そんなブルーハーツを誰かがカバーすると、これが不思議なことに俄然「いい曲」になってしまうのである。オリジナルは耳障りな雑音のようにすら思えるのに、他の歌手が歌うと、あるときは勇気凛々、あるときは哀切、またあるときは狂おしいほどの人間賛美、様々な「顔」を見せることになる。
 かく言う私も、カラオケでしげが『TRAIN TRAIN』を歌ってるのを聞いて、「あれ? これってこんなにいい曲だったっけ?」と驚いたことがあるのだ。

 「終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため
  終わらない歌を歌おう 全てのクズどものために」

 ブルーハーツが歌うっているのを聞いていても、このフレーズはナルシスティックにしか聞こえない。世界を勝手に「クソッタレ」なんて決め付けるな、「クズ」って俺たちのことを言いたいのか、ふざけるな、クズなのはお前らだけだ、傲慢なこと言ってやがるんじゃねえ、と、反感すら抱いてしまうのだが、ひとたびブルーハーツの手を離れると、そんな歌い手の自己陶酔的なムードがきれいサッパリと消えてしまうのである。「クズども」は我々を貶める言葉ではなくなり、全世界に広がって「みんなクズでいいじゃないか、みんなのために歌おう」と、我々の歌のように聞こえてしまうのである。
 これはいったい何なんだ、私の錯覚か、と思っていたのだが、パンフレットで、この映画のプロデューサーがこんな発言をしているのを読んで、ああ、これは私だけの感覚ではなかったのだと合点が入った。「魅力的なカバーは、下手なオリジナルよりインパクトがある」「文化祭ライブで『リンダリンダ』をやると異常に盛り上がるとはリアルな実話であったし、ブルーハーツならば、急遽2、3日でコピーできたとしても全然変じゃない」
 要するにブルーハーツはヘタなのである。たいした音楽ではないし、たいした曲でもない。しかし、「熱さ」と「勢い」だけはあって、才能も目的も意志も持ち合わせてはいないけれども、何か心の中にわだかまりだけはある我々クズにとっては、これはまさにドンピシャのソウル・ソングになりうるのだ。
 劇中では誰の曲を歌うかで恵と響子が頭を悩ませるシーンがあるのだが、そのときに名前を挙げられた歌手たちが、ジュディマリ、椎名林檎、デリコ、パフィー、ユニコーンなどである。ブルーハーツが選ばれたのも実にリアルな選択であったということがご理解いただけるだろうか。
 鴻上尚史の『リンダリンダ』の失敗は、初めは「勢い」だけだった物語が、次第に世の中の不正とか矛盾とか不条理に対する「怒り」にスライドされていくその「思想性」にあったと言える。そんな「思想」はブルーハーツには最も縁遠いものだ。そこが鴻上尚史にはまるで理解できていない。

 「ブルーハーツをやろう」、ここまでは実にリアルな展開である。
 そして、これからがこの映画の中で唯一「虚構」と言える設定が持ち込まれることになる。
 残るメンバーの一人、ボーカルに「韓国人留学生」のソン・ミヘ(ペ・ドゥナ)が無理やり加入させられるのだ。
 その過程は、この映画で最もユーモラスなシーンの一つで、恵たちは、日本語のよく分からない彼女に「ハイ、ハイ」と言わせて(言う方も調子よすぎだが)、殆ど強引に仲間に引き入れているのである。恵は意地になっているから、ソンがブルーハーツを歌えるかどうかなんてとこまで考えていない。いや、そもそも拒絶される可能性すらまともに考えてはいない。
 けれど、『リンダリンダ』のカセットテープを聞いたソンの頬を涙が伝ったところから、促成バンド「パーランマウム(韓国語で「青い心」)」は、本格的に動き始めるのである。文化祭最終日まで、わずか三日……。
 
 しかし、「作りものめいた展開」はせいぜいこのあたりまでで、あとの展開はやはり非ドラマチックなものになる。
 響子が練習に遅れて恵がむかつくとか、徹夜で練習し過ぎて居眠りこいて文化祭に遅刻してしまうとか、そういう「ありうるような」トラブルはいくつかあるが、それで友達同士の仲が壊れるとかいうこともないし、仲間外れになった凛子が復讐をたくらむとかそんな少女マンガ的大映ドラマ的展開もない。
 ライバルバンドも出てこないし、ソンがやっぱり歌えないと泣きじゃくるとか、「韓国人が日本語の歌を歌うな!」とほかの韓国人が乱入してくるような『チルソクの夏』的展開もない。
 ただ、みんなで練習して、初めは全然形にならなかったのがいい感じになってきて、最後に『リンダリンダ』と『終わらない歌』を熱唱して終わる。殆ど癖がないと言ってもいい。それだけの映画なのに、やっぱり最後は盛り上がるのだ。それはいったいなぜなのだろう。
 
 ちりばめられた小さなギャグの可愛らしさ、それが物語をダレさせることを防いでいるということもある。
 他人の恋愛にはすぐ首を突っ込みたがるソンが、いきなりコクられてキョトンとし、全く意に介しないシーンなど、画面から漂ってくる「間抜け感」は、そういうギャグの分かる人にはもう欣喜雀躍したいところだろう。ソンを演じたペ・ドゥナ、実はもう高校生なんておトシではないのだが、こういう高校生のぽやーっとした雰囲気を天然じゃないのかという感じで見事に演じている。ギャグ担当はもっぱら彼女の独擅場だ。
 もちろん、ラストの彼女の熱唱、伸びやかで癖のない声、その素晴らしさ。これ自体がドラマであることは言を待たないだろう。
 しかし、やはり歌われる曲が「ブルーハーツであること」これが最大の魅力であると見るしかないのではないか。ブルーハーツ自体が「熱い」のだから、それまでのドラマがいかにも虚構で、非リアルな世界であっては、物語と歌が相克の関係になってしまう。「リアル」は、ブルーハーツを「ハレ」の舞台とするための必要条件であったのだ。
 
 映画は文化祭最後のステージの熱狂で終わる。
 それを見ている我々にも感動が押し寄せてくるのは、そこに、我々がかつて経験してきた「文化祭前&文化祭期間中」のあの何とも言えない濃密な空間が再現されているからだ(現在高校生である人たちにとっては、まさに映画と現実とがシンクロして感じられるだろう)。
 そしてその「濃密さ」にはブルーハーツの無意味なくらいの「熱さ」が、似合い過ぎるほどに似合っているのである。
 私はカラオケで一度もブルーハーツを歌ったことがないのだが、この映画を見て初めて『リンダリンダ』を、『終わらない歌』を歌いたくなった。それは、「無意味な熱さ」への共感なのである。

2004年08月21日(土) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」4……打ち止め。
2003年08月21日(木) ぼーくーは、ないちっち(^o^)/『BLACK JACK ザ・コンプリート・ダイジェスト』(中野晴行編)
2001年08月21日(火) 台風の日は病院で寝転んで/『偶然が残すもの 記憶鮮明�供戞米�渡早紀)ほか
2000年08月21日(月) 一日経つと記憶が消える。……年か?/ドラマ『柳橋慕情』ほか



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