無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月07日(日) 日本人の「常識」/映画『妖怪大戦争』

 『仮面ライダー響鬼』第二十六之巻 「刻まれる日々」。
 26話でちょうど折り返し。もっとももう八月に入っちゃってるから、52話放映できるかどうかは分からない。最終回とか一時間スペシャルにしてくれるとか、そういうサービスがあるといいんだけどね。
 ちょこちょこといろんな設定が明らかにされてはいるが、「夏の魔化魍」ってのもかなりいい加減。つか、「黒い謎の男から作られる大きな魔化魍と、白い謎の男から作られる人間と同じ大きさの魔化魍の2種類があって、等身大の魔化魍は夏になると出てくるため、『夏の魔化魍』と呼ばれている」なんて、無駄な設定、作りすぎ。まあドラマは相変わらずまったりしてるけど、まったりしすぎていて、果たしてきちんと終われるのかどうか心配になってきた。つか、終わんなくてもいいのか。なんかいつどこで終わってもおかしくないくらい日常ドラマになっていて、今や特撮版『渡る世間は鬼ばかり』になってる感じだ。まあ下敷きは『寅さん』だけどね。
 今回、下條アトムがお休みだったけれど、単に役者の都合なのか、これもドラマ上の何かの伏線なのか。この人も役に立ってんだか立ってないんだか全然分からないね。

 
 ノルマを果たすようにキャナルシティで映画をハシゴ。
 一本目は『妖怪大戦争』。
水木しげる・荒俣宏・京極夏彦・宮部みゆきの四人共同のプロデュースだけれど、印象としては、「京極色」画より強く出ている感じがする。ともかく妖怪ファンの妖怪ファンによる妖怪ファンのための映画で、次から次へと繰り出されて来る妖怪を見ているだけで楽しい。最初は人間が妖怪を顔出しで演じるということで不安もあったのだが(昔の大映版では「油すまし」や「ぬらりひょん」はかぶりものをしていた)、竹中直人がCGでドデカ頭にさせられていて、ちゃんと油すましに見えたのには大笑い。あれは最後までデカアタマで通してほしかった。
 必ずしも伝承にある妖怪ばかりではなくて、京極さん命名の「新しい」妖怪も多数で、どれが創作された妖怪か探すのも一興だろう。私は大満足であったし、会場満杯の親子連れも大笑い、これはなかなか評判がいいんじゃないかと思っていたのだが、帰宅してネットの反応を見てみると、必ずしもそうでもなかったので、ちょっと驚いてしまった。しかもその中身がかなり「混乱」しているのである。

 映画の何に惹かれどこを見るかというのはもちろん自由である。物語に惹かれるも、キャストに惹かれるも当人の自由であるし、どんな感想を抱いたって自由だ。
 ただそれは「基本的には」ということであって、その映画を見るにはそれなりの「素養」が必要になることは常識であって、映画によっては「素養」に欠けた人間の感想や批評は、無意味などころか映画の価値を不当に貶めることにもなりかねない。
 外国映画で、キリスト教的世界観が分からなければ何のことやら見当もつかない映画はたくさんあるが、そんなことに一向に無頓着に感想を述べて頓珍漢なことを書き散らしているプロと称する批評家は腐るほどいるのである。
 けれども、外国映画のことを日本人が分からない、というのなら仕方のない面はある。けれども、日本人が日本人としての「素養」を知らないということになれば、これはかなりゆゆしき事態ではないかと思う。

 映画に関して賛否両論が巻き起こるのは当然のことだが、『妖怪大戦争』のネットなどでの感想、「否」を唱える人の意見がどうにも「的外れ度」が高いのである。どれだけ混乱しているかというのは、この映画について、「所詮は子供向け」「オトナのお友達しか楽しめない」と正反対の反応があることからも分かる。この映画を「子供が見るか大人が見るか」という視点で見ること自体、「的外れ」なんだが、批評の言葉が少ないというか、映画を見るキャパが狭い連中には、その程度の常識的な見方もできないのである。つか、なんでそんなやつらばっかり映画を見に来てるんだよ。
 確かに映画のセオリー、ドラマツルギーを考えた場合、あえて定石を外している展開は随所にある。しかしそれはこの物語の目的が、映画としての辻褄を合わせることよりも、妖怪という「習俗」をいかに映像に定着させるかという点にあるからで、その前提を理解せずに批評をしても、それはやはり単に難癖をつけることにしかならないのである。
 妖怪の中にも「戦争」をするやつらはいるが、それは狸とか河童とか、数の多いやつらだけのことだ。「落剥した神々たち」は下手をすると人間に「祟る」ことすら忘れてしまっている例が多い。「油すまし」などはどんな妖怪だか分からず、伝承の中ではただそこにいるだけである。
 代表的な反論か「妖怪が戦わないので拍子抜け」というものだが、作中で「妖怪は憎まない、戦わない」存在であるということが言明されているのだから、戦うわけにはいかないのは当然なのである。「四の五の言わずに戦え」と怒り狂ってた人もいるが、何を阿呆なことを言っているのかと理解に苦しむ。よっぽど戦争が好きなのであろう。

 代表的な反論として、「PREMIERE」誌の次の批評を参照してみよう。

>「妖怪大戦争」三池崇史監督以下、豪華なプロデュースチームが放つ自信作だが…
> 妖怪というマイナーな存在を広く一般に知らしめたのは、言うまでもなく水木しげるの一連の著作とアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」である。

 基本的な素養がないと言うのはこのことで、冒頭のこの文章で「はあ?」である。「妖怪がマイナー」って、こいつの出身地には妖怪の伝承は全くなかったのか?
 「腹を出して寝てると“雷様”にへそを取られる」とか「川で遊んでると“河童”に尻こだまを抜かれる」とか。確かに地方ごとに妖怪の伝承はあって、その地域でしか聞いたことのない妖怪というものはあるけれども、全国区的に「有名な妖怪」はいくらでもある。「鍋島の化け猫騒動」が何度映画になったと思ってる? 「なまはげ」は東北だけにしか知られてないか? 福岡などは河童伝承には事欠かず、私も子供のころに近所の「河童おじさん」から延々と河童の話を聞かされたことがあるぞ。
 文学の世界でだって、江戸期以降、妖怪・怪異の類はいくらでも扱われている。小泉八雲の、泉鏡花の妖怪譚はマイナーなのか? 柳田国男の『遠野物語』や『妖怪談義』の存在を知らないのか?
 「口裂け女」や「人面犬」や「トイレの花子さん」など、今も妖怪は生まれ続けているのに、こいつはそういうのを全て「マイナー」と言い切るつもりなのだろうか。
 水木しげるさん自身だって、妖怪の話を初めて知ったのは「のんのんばあ」から聞いたのだと自伝等の著書に何度も書いていることである。『鬼太郎』以前から各地に妖怪伝説はあったのだ。
 けれども、ネットを散見するとこのライター氏と同様の馬鹿意見がやたら幅を利かせているのだ。妖怪はどうのこうのと余計なウンチク垂れるな、なんて意見もあるが、これはウンチクではなくて、「素養」の問題なのである。もし皆さんの中で、「だって『鬼太郎』読むまで妖怪なんて知らなかったもん」と仰る方がおられるのならば、妖怪もいない悲しい環境に育ってきたのだなあと同情を申し上げる。そういう話をしてくれるじいちゃんばあちゃんがただの一人も身近にいなかった孤独な人だってことだから。
 けれどそういう人間にはもともと「妖怪」を語るための素養が備わってはいないのだということを自覚していただきたいものだ。

> いや、1960年代に大映が放った妖怪三部作も忘れちゃならない。三池崇史監督がメガホンを執ったこの久々の本格的な妖怪映画は、大映版を下敷きにしつつ、水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきという豪華な顔ぶれがプロデュース・チームを組んで原案に参加したという期待の1本。が、その仕上がりは“微妙”なものと言わざるをえない。
> 最新デジタル・テクノロジーではなく、あえてチープなアナログ感漂う着ぐるみ&特殊メイクを前面に押し出して妖怪を映像化した選択は悪くない。ひょんなことからひ弱ないじめられっ子から妖怪界の救世主、麒麟送子(きりんそうし)に祭り上げられる人気子役、神木隆之介もはまり役で、特大サイズの剣をふるっての大奮闘を披露。妖怪に出くわすたびに愛くるしいびっくり顔を浮かべ、女妖怪、川姫のむっちりとした太股に悩殺される彼の熱演を眺めているだけでも楽しい。
> しかし神木君を取り囲む妖怪たちがはしゃぎすぎで、“大戦争”が繰り広げられるはずのクライマックスはさながらほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会といった風情になってしまい、緊張感は皆無。せっかく神木君扮する主人公タダシが捨て身で勇者へと成長を遂げたというのに、彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこけるというオチにも拍子抜け。愉快なエンターテインメントではあるが、締めるべきところは締めてほしかった。

 ここまでトンチンカンだともう笑うしかない。
 そもそも妖怪たちには加藤保憲(豊川悦史)と戦う意志も力もないということにこのライター氏は全然、気がついていない。一緒に戦おうと仲間に呼びかけても、ほとんどみんな臆病風に吹かれて逃げて行ってしまう(このあたりのシチュエーションは『鬼太郎』版『妖怪大戦争』へのオマージュ)。だいたい呼びかけ人になっている猩猩(近藤正臣)、川姫(高橋真唯)、川太郎(阿部サダヲ)の三人(匹?)が、自分たちで戦う気などサラサラなくて、だからこそ稲生家の子孫であるタダシ(神木隆之介)に「麒麟送子」の役目を押し付けているのである。
 その「麒麟送子」が結局は役立たずなのも、彼が所詮は憎しみや恨みに支配されてしまう「人間」に過ぎないからで、「捨て身で勇者へと成長を遂げた」りなどしてはいない。加藤保憲が「人間の憎悪」を糧にして東京の破壊を試みようとしている以上、タダシは最初から最後までカトウに利されるだけの存在でしかないのである。
 人間の努力を鼻で笑い飛ばすように「彼の活躍とは関係のないところで悪がずっこける」からこそ面白いのである。最終的に加藤を倒すのが人間・佐田(宮迫博之)と妖怪・小豆洗い(岡村隆史)の“最も無力な”コメディアンコンビだという点にこの映画の人を食った(いかにも妖怪らしい)「粋さ」がある。それを感じることができないというのは、これもやはり「素養」がないからなのである。
 「締めるべきところは締めてほしかった」なんて、ちゃんと締めてますがな。「小豆」の伏線もちゃんとじいちゃん(菅原文太。ボケ演技はこの人にしては名演技)が張ってくれてるし、だからこれは伝承や習俗に拠ってる映画だから、妖怪映画として最も適切な終わり方をしているのである。ウソをついて「大人」になったタダシに妖怪たちの姿が見えなくなるってのも、ちゃんと「座敷わらし」の伝承を受け継いでいるのである。あれを否定するのなら、『となりのトトロ』も否定しなさい(別の意味で私は否定するが)。
 ……そう言えば、ぬらりひょん(忌野清志郎)がタダシに向かって「お前、靴が破れたからって捨ててるだろう!」と説教するシーンを見て、「靴が破れたら捨ててもいいじゃないか! 理不尽だ!」と怒りの意見を書いてた人がいたが、これがその理不尽さを狙った「ギャグ」だって気付いてないんだなあ。昔から「化け草履」とか、古くなったモノがこういう「付喪神」になるって感覚はこれも常識的な習俗としてあって、別に「もったいない」という感覚とは関係がないのである。モノは理不尽にも妖怪になるものだって素養がないからギャグの一つも分からなくなっちゃうのだよ。
 まあ、タイトルに『妖怪大戦争』とあるから、すっかり騙されてしまうのだろうが、「ほろ酔い気分の妖怪たちの大宴会」になってしまうのもわざと「看板に偽りあり」をやってるんで、「妖怪大戦争」のセリフが、「そこに紛れ込んだだけで状況が何も分かってない」佐田の口から出ているという点に着目すべきなのである。妖怪とか鬼とか、よく山ん中で宴会やってるわなあ。そこに紛れ込んじゃった人間がいかに脱出するかって民話とか、たくさんあるよなあ。昔話の『こぶ取りじいさん』とか落語の『田能久』とかの素養もないのかよ。……って、どうしてこうも「俺たちの世代までだったらすぐにピンと来る素養」がこんなにも失われてしまってるのだ?
 確かに、ある程度の知識がないと「これはどういうこと?」と疑問符の浮かぶ説明不足の描写はある。なぜ妖怪と対決する役目がタダシに振られたのか。タダシの名字が「稲生」であることと、最後に山ン本五郎左衛門(荒俣宏)と神野悪五郎(京極夏彦)が登場することに気付けば、彼が『稲生物怪録』の稲生平太郎の子孫なのだなと分かって、それは疑問にもならないのであるが。でもさすがにこれは地元の三次に住んでる人たちでも知ってる人はあまり多くはない伝承だろうから、気づけと言っても難しいかもしれない。
 加藤と川姫、安倍晴明(長澤俊矢)の間に何があったのかも一切説明はされない。だいたい、陰陽師の格好こそしているけれども、加藤の後ろに立ってたのが晴明だとはパンフを見なけりゃ分かるこっちゃない(ワンカットの出演なら、野村萬斎に来てもらえばよかったのに)。川姫が「ヒトガタ」だったことを考えれば、晴明に式として使われ捨てられ、そこに加藤が付けこんだのだろうと見当はつくが。私が驚いたのは、「将門以前」に加藤が存在していたことで、つまり加藤の正体は千年の地霊だということなのだろう。ともかく関東に人がはびこってること自体が気に入らないのだな。
 このあたりは確かに描写として不親切ではあるが、何となく察することができればいい程度のことで、本筋を辿る邪魔にはならないし、腹を立てなきゃならんことはないのである。私が「これはどうかな」と思ったのは川姫の扱い方くらいで、「憎しみを持つのは人間だけ」のセリフを「絶叫」させちゃちょっと妖怪らしくない。あそこは「所詮タダシもただの人間」と、加藤だけでなくタダシもまた糾弾する(自分で麒麟送子にしておきながらヒドイ話である)シーンなのだから、もっと静かに演じてほしかったところだ。
 三池崇史の映画もかなり見てきたが、その演出は、総じて「雑」なので、ディテールに関しては不満が残ることが多い。意外に海外での評判はよいようであるが、去年の『IZO』とか、ドラマなんてないに等しかったけど、一種のトリップ・ムービーとして見られているのだろうか。『妖怪大戦争』も海外展開が考えられているようであるが、日本文化がマトモに継承されていない日本よりは海外の方がかえって作品を深読みしてくれて好評を得るかもしれない。もしそうなれば、またしても「日本人は自らの文化すら知らない」と失笑を買うことになりかねない。世の親御さん、この映画見てお子さんから「これどういうこと?」と聞かれたら、ちゃんと説明してあげてね。説明できたらの話だけど。
 余談だが、主役(実はそうじゃないけど)の神木隆之介君、『インストール』では上戸彩のチチ触ったり、今度は高橋真唯のフトモモ触ったりイイ思いばかりしているが、学校で友達に苛められたりしてないだろうか。心配である。


 続けて『亡国のイージス』も見たのだが、規定分量をオーバーするので、これは明日の日記で。
 ここまでやたら書かなくてもいいと言われそうだが、まだこれでもかなり内容を省略しているのである。映画の見所も見えないのに批判するやつが多くてホント困るよね。

2004年08月07日(土) キャナルシティの『ブルース・ブラザース・ショー』3……多分4まである(^_^;)
2003年08月07日(木) さよならロドリゲス/『クロノアイズ グランサー』2巻(長谷川裕一)/『謎解き少年少女世界の名作』(長山靖生)
2002年08月07日(水) コギャルかく語りき/DVD『久里洋二作品集』/『ヒカルの碁』18巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2001年08月07日(火) 代打日記
2000年08月07日(月) 胃袋には限界があるのだ/『江戸幻想文学史』(高田衛)



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