無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年09月14日(火) 「宅間守」という“役者”の死/『ああっ女神さまっ』29巻ほか

 ここんとこ自分とこの日記を更新するのが手一杯で、ヒトサマの日記を覗きに行くことが少なくなっていた(いつものことという説もある)。
 この日記は「エンピツ」の「アニメ/漫画」の項目に登録してあるのだが、同じ項目の方々の日記も覗きに行くのは「お気に入り」に登録して下さっている数人だったりするので、今まで殆ど気付いてなかったのだけれど、ここの方々、殆ど女性で、男って私一人くらいしかいないのね(^_^;)。
 ……いや、今まで気付かなかったのがどうかしてると言われそうだけれども、私が最初に登録したときには人数そんなにいなかったから、登録者の男女比なんて、たいして気になってなかったし。それが今や、中高生の女の子たちが「アニメイト」でキャイキャイ言ってるところに、中年のオッサンがうっかりノソッと現れてしまったような、実に居たたまれない雰囲気になっているのである(-_-;)。
 昔ほどにマンガの感想も書かなくなっているし(それどころか読んだ本のタイトルすら書かなくなってしまっていた)、どこか別のところに引っ越そうかとも思うのだけれども、適当なところがほかにない。「映画」の方に行っちゃおうか、相当考えたのだけれども、あちらは毎日更新してるような活発な日記が少ないので、ご近所さんを覗きにいく楽しみがあまりないのである。
 マンガの感想用に別コンテンツ立てたはいいものの、そちらの更新もままならなくなっている。やっぱりこちらでちょっとだけでもいいから以前みたいにマンガの感想書いてったほうがいいかなあ、と考えなおしているところなのである。でも、そうなると相当思いきって短く書かなきゃなんないんだよね。そりゃわかってることなんだけれども、これがそう簡単にはいかないのである。
 だいたい何で文章が長くなるかっていうと、「このマンガを紹介するためには、筋とかキャラクターとかもある程度書いとかなきゃ知らないヒトにはワケわかんないんじゃないか」なんて考えてしまうからなんだね。「要約プラス感想」なんてことしてりゃ、そりゃ文章長くなるばかりだって。
 ほかの方々の日記を読んでると、そこんとこはもうすっ飛ばして、「読んでる人には説明不要」で感想だけ書いてるから、割り切ってそうしちゃえばいいのである。なんか、ここまで「看板に偽りあり」状態が続いていると、心苦しくて仕方がない。……いやねえ、これまで細々と目立たず日に五、六十件のアクセスしかなかったのが、ここんとこアクセス数が毎日100件越すようになっちゃったんで、なんか毎回内容のない駄弁りばっかり書いてるのも申し訳ない気分になっちゃってね。

 というわけで、やっぱり思いきってマンガの感想もこれからちょっとだけ書くことにした。ただし、どんなに説明不足になろうと「(画面フルサイズで)五行以上は書かない」という枷をつけよう。でないと、本当に更新なんて不可能になってしまうのである。
 今日読んだマンガの1冊目。まだ読んでたのかの藤島康介『ああっ女神さまっ』29巻。
 ウルドがようやく1級神試験を受ける。もっともこれまでどれだけ1級と2級に差があるんだって感じだったんで、今更なんだけど。最近、藤島さんは絵柄をまた変えたけれども(一つの絵柄描き続けると飽きるんだそうな)、ファンじゃなきゃ気がつかない程度の差異なんだろうな。アオリでチチ強調したり、かなりエロ度増してるんだけどね。テレビアニメ化決定だそうだけど、かなり線を安定させるのが難しそうな今の絵柄でやれるのかなあ?
 もう1冊は、岡野剛『未確認少年ゲドー』1巻。懐かしの『ぬ〜べ〜』のマンガ家さんね。「妖怪」が「未確認生物」に変わっただけで基本的には同じマンガだ。しかし気になるのはゲドーの目で、「エジプトの壁画から取った」って書いてるけど、「ねこぢる」じゃないのか、アレは。かなりムリのある設定ばかりであまり面白くないんだけど『ぬ〜べ〜』の時も「絵柄が好み」ってだけで買ってたんだよなあ。


 本格的に仕事再開、初日でもうバテる。
 何だかまた少し風邪を引いたみたいで、鼻水が詰まって息が苦しい。そろそろ涼しくなるかと思って、長袖で出勤したのも敗因。いやもう昼から暑い暑い。これでまたぐたっとなって、予定していた仕事が捗らず。仕事のやり残しは明日以降に響くからなあ。病み上がりだってのに持つのかオレ。
 残業してもおっつかず、そぼ降る雨の中、くたびれて帰宅。今日はしげも早出の出勤で迎えに来れないので、バスで帰ろうとしたら今出たばかりで30分以上待たなきゃならない。トテモそんな元気はないのでタクシーで帰る。あまりムダ金は使いたくないのだけれども、今は体力温存のほう優先しないとしょうがないのである。


 帰宅して、NHKBS2で、『コナン・ドイルの事件簿』第2話「惨劇の森」を見る。
 昨日の第1回は映画に行ってて見損ねてた。イアン・リチャードソンのベル教授は肖像画の本人にソックリで、さすがはBBC、と拍手したくなる。ただ、全体的な雰囲気は悪くないんだけど、ベル教授があんなに事件に対して積極的ってのは、何かイメージが違う。もちろんそうしないと推理ドラマにならないってのはわかるんだけど。話自体はオリジナルなんだろうけれど、いかにもドイル的な因縁話。そのあたり、脚本家がいかにも原作を読みこんでる印象なんだけれど、それがイマドキおもしろいかどうかということになると、ちょっとだけ疑問符も付くのである。


 アメリカの人気テレビ番組がこちらで放送されることはBS・CSでだって必ずしも多くはない。ドラマならばまだしも、バラエティ番組となれば殆ど見る機会なんかないと言っていいが、以前、『キネマ旬報』で紹介されていて、「うわ、これ見てみてえ!」と思った番組が一つある。それが『The Apprentice(見習い人)』なんだけれども、これ、ただのバラエティ番組ではない。
 番組のホストはあちらの不動産王ドナルド・トランプ。
 「28歳で独立し、市内の老朽化ホテルをよみがえらせ、1983年には世界一豪華といわれた黄金ビル『トランプ・タワー』を五番街に建設。1990年代の不動産不況で資産を失ったが、事業を建て直して不動産、ホテル、カジノ経営で、資産30億ドル超といわれる立志伝中の人物」だそうな。
 番組は毎回、一般からの出演者を募り、数十人がトランプ氏のもとで13週に渡って勝ち残り方式で実業家訓練を受けていくシミュレーション方式。芳しい成績を上げられなかった参加者は、トランプ氏から、「You're fired!(首だ!)」の宣告を受けて脱落していく。最後に残った1人は、トランプ氏に“本当に”採用されて要職に就くことができるという、言ってみれば会社の採用試験をそのまんまバラエティ番組にしてしまったものである。まあ、日本にも似たような番組がこれまでになかったわけじゃないけれども、その規模のケタが違う。料理勝負とか、資金を何百万円か出してもらえるとか、そんなささやかなものじゃなくて、ムリヤリ日本でたとえるなら石原慎太郎が都庁の役員をバラエティ番組で選んじゃうようなもんだからだ(もっと凄いか?)。
 アメリカさんはさすがに考えることが違うねえ、と感心してしまいそうだが、アチラでだって『The Apprentice(見習い人)』は相当に型破りな番組なのである。13日に、グローバル・ランゲージ・モニターが発表したテレビ流行語の新リストで、先ほどの「You're fired!(首だ!)」がトップになったが、それだけアメリカ人もみんなワクワクしながらこの番組に注目しているのだ。もちろんこの人気もブッシュ政権の赤字経済のせいで失業率が増加していったことなどと無関係ではあるまい。毎回トランプ氏が出演者たちに任せる事業は“現実の”子会社の経営なのであり、そこでのトラブルをいかに解決するか、本当の危機管理能力が試されているのである(らしい)。視聴者だって、これからの世の中、いかに自分たちが生き残っていくか、ある意味“本気で”この番組を見ているのであって、これは、大統領の無能な政策に対するトランプ氏の挑戦であると見ることもできるのだ。
 アメリカで何か番組がヒットすると、追随したような番組が日本でも作られることが多いが、これはさすがに簡単にマネはできないだろう。だからこそこの番組そのものをちょっとだけでもいいからCSとかで放送してくれないかと願ってるんだけど、なかなかムズカシイかねえ。


 2001年、大阪教育大付属池田小学校で児童8人を殺害した宅間守の死刑が執行。
 死刑反対論者ででもない限り、妥当な結果、と考えている人も多いと思われるが、なんだかどうも釈然としない。事件自体もそうだが、死刑に至るまでのプロセスは全ては宅間死刑囚の独擅場だった。
 「家庭が安定し、恵まれ、勉強できた人間でも、アホで大けがして展望のない腐りきった自分のようなおっさんに、たった五、六秒で刺されて死ぬ。そんな不条理さをわからせてやりたかった。いくら勉強できようとがいつ死ぬか分からん人生。世の中勉強だけちゃうぞと一撃を与えたかった」「エリートでインテリの子をたくさん殺せば確実に死刑になれると思った」などの手前勝手な主張を聞いて、我々は憤った。しかし考えてみると、宅間死刑囚の思惑は全て図に当たってしまっているのである。
 被害者の子供たちは全く不条理に殺された。そして宅間死刑囚は死刑になった。けれどそれは全て彼が望んだ通りの結果なのである。
 いや、宅間死刑囚は、最期には自分の罪をちゃんと認識していたぞ、というご意見もあるかと思う。一見、反省とも取れる言葉を、接見した東海女子大の長谷川博一教授に彼は語っているからである。「殺された子供の立場に立ったら無念だったろう」「自分のしたことで不幸になった人がいるのは分かっている」。けれど私に言わせればこんなのは悔悟の言葉でも何でもない。ただ自分のしたことの因果関係を事実として確認しているだけのことである。結局、彼は蕭然として自ら首を縊ったも同然である。
 私がどうにも釈然としない、というのはここなのだ。
 これは「死刑」ではなく、ただの「自殺」ではないのか。法は、彼に罰を与えるどころか、彼の自殺を手伝ったただけではないのか。もちろん、彼を死刑にするべきではなかった、などと言いたいわけではないが、“本人にとって何の罰にもなっていない”刑に、いったいどんな意味があるのか、どうしても納得し難いものを感じないではいられないのである。
 これは、たとえ死刑になろうとも、法が宅間死刑囚の前に「敗北」した瞬間なのである。「劇場型犯罪」と呼ぶなら、これは、俳優・宅間の演技に我々が無理矢理脱帽させられてしまっているのである。悔しいとは思わないか?
 ……ドス黒い感覚であると知りつつ、あえて言おう。
 宅間死刑囚にはどこかで自分の罪を悔悟してほしかった。そして、自分が死刑になる恐怖におののいてほしかったのだ。13階段を上りながら、「死にたくない! 俺が悪かった! 助けてくれ!」と身を捩じらせ醜く泣き喚く彼を死刑にしてこそ、我々の溜飲は下がったはずなのだ。しかし、どんなに時間をかけ、説諭を繰り返したところで、まさしく「腐りきった」彼にそんな瞬間が訪れることはなかっただろうと思う。
 どんなに怒りが収まるまいと、我々は、彼が語ったごとく、腐りきった人間にごく普通の子供たちが(宅間死刑囚にとっては小学生でもエリートに映ったようだが)殺されてしまう“不条理”、それを、臍を噛みつつ、事実として受け入れるしかないのである。
 ……せめてラクに死なせるんじゃなくて、指一本ずつ切ってくとか、なんかそういう苦しめて苦しめて苦しめた末に殺すくらいのことはしてやりたかったよ。

2003年09月14日(日) タイトルを付ける元気もね〜や(;´_`;)。
2001年09月14日(金) カリメンしげ/『モーツァルトは子守唄を歌わない』1巻(森雅裕・有栖川るい)
2000年09月14日(木) 通院と残暑と誕生日プレゼントと/『世紀末アニメ熱論』(氷川竜介)ほか



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