無責任賛歌
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| 2003年01月19日(日) |
S(エス)の悲劇/DVD『みんなのいえ』/『ブレーメン�供截幹�(川原泉) |
早朝、何の番組だか、テレビで怪しい外人(アメリカ人らしい)が、オーストラリアで「カンガルーの陰嚢」を探しているのを見る。 なんじゃそりゃ、と思わず居住まいを正して画面に見入る。ンなもんで見入るのもアホみたいだが。 「陰嚢って……つまりアレだよな? そんなもん売ってるのか? 何に使うんだいったい」 矢継ぎ早にしげに問いかける。けれど、しげだって別に陰嚢の専門家というわけではない。 「……小物入れにでも使うっちゃないと?」 そう答えるのが関の山であったが、更に畳み掛けるように問い質す私。 「小物入れって……ホンモノの陰嚢を? 別にナニをかたどっただけってわけじゃなくて? ホンモノの陰嚢をなめして作ったの?」 「知らんよ!」 しげが突き放すのもムリはあるまい。あまり陰嚢陰嚢言われて、返事ができるものでもあるまい。とりあえずそのままテレビを見ていると、件の外人、聞きこみの末、見事某ショップで陰嚢をゲット。潰れた風船か袱紗みたいな形をしたものが四つほどパックに入っている。どうやらホントに陰嚢を小物入れにしているらしい。 うーん、感覚的にはやはり首肯しがたい面があるが、アチラの人たちの感覚では屈託がないんだろうなあ。
咳に悩まされながら、それでも「映画を見てやるんだ!」と、しげが芝居の練習に出かけている間に、三谷幸喜監督の第2作『みんなのいえ』のDVDをかける。 『ありふれた生活』を読んだときの感想にも書いたが、これが三谷幸喜初のオリジナル脚本の映画化、というのは真っ赤なウソである。 東京ヴォードビルショーの公演ために書いていた『アパッチ砦の攻防』の初稿がその原作。舞台版の方は完成寸前で初稿が破棄され、全く違う脚本が渡された。 出演者の佐藤B作も伊東四朗も、公演一週間前に台本を渡されて大変だったってことを、『アパッチ砦の攻防』のパンフレットで語っている。パンフには制作記録も細かく掲載されてるから、三谷さんがどれだけ周囲に迷惑かけまくったかがバレバレである。あの人もエラくなって、段々井上ひさしみたくなってきたな。 当時は「初稿がうまくまとまらなかったのかなあ」って考えてたけど、こうして映画が作られて、しかも三谷さんがオリジナル脚本があったことをキチンと説明してないところを見ると、あの「原稿落とし」はワザとだな。「これは舞台より映画向き」と判断して、寝かせることにしたんだろう。やっぱりあの人、性格は結構悪辣であるな。
小林信彦はどうやら三谷幸喜を嫌っているらしい。 『週刊文春』の『人生は五十一から』で、三谷さんが自作のテレビ番組『HR』について「日本初のシットコム(=シチュエーション・コメディ)」と標榜している発言を引いて、「『スチャラカ社員』があるじゃないの」と、その無知・不勉強を「静かに」怒っている。 なんで「怒ってる」と判るかっていうと、文中に一切「三谷幸喜」の名を出していないのである。「脚本家は」という言い方だけだ。 まあ、小林さんから見れば、三谷さん程度のコメディはとても評価できるものではあるまい。三谷さん自身が言ってることだが、「私が売れてるのはほかにコメディの書き手がいないから」というのは「今は」事実だ。もっともそれは、即物的なクソバラエティしか作ろうとしないテレビ局に責任があることなんだが。 そのことを自覚せずに「ほかのコメディ作家はなにやってるんだ」と言ってるようにも取れる発言をしてちゃ、業界内で腹を立てる人も現われて当然だろう。 実際、何かにつけ、三谷さんの知識にはやたら偏りがあるのを感じる。私より一つ年上なのに、なぜか『スチャラカ社員』も『てなもんや三度笠』も見てなかったらしい。関西喜劇だけれど東京進出を果たして、視聴率を5、60%も取ってたのになあ。昭和30年代にそれだけの視聴率を取ってたということは、「誰もが見てた」ってことだ。 いや、見てなかったにしても話くらいは聞いてておかしくない。小林さんは控え目に『スチャラカ社員』だけを挙げているが、吉本新喜劇をガキのころから見続けている者なら、「日本初のシットコム」なんて発言は不遜過ぎてできるものではないのである。全盛時の『あっちこっち丁稚』のギャグに次ぐギャグは、「土曜の昼は吉本」って習慣を関西以西の人間に刷り込んでいた(いやマジ)。 少なくとも「シットコム」なんて、腐るほど見てきているのである。どうも関東生まれの人間というのは、自分たちの文化にしか目が向いていない悪いクセがある。好き嫌いならそれも仕方がないが、文化全体を捉えて論考する場合、それは余りにも大事なものを見落としてしまうのではないか。 無知は場合によっては、文化を殺し、人を殺すのである。三谷さんの「思い上がり」に対しては、そろそろクギを刺す人たちが出て来たほうがいい。演劇界にはそういう人もちょこちょこいるんだが、テレビ界では今のところそれが小林さんだけに留まってるように思う。ヌルイ批判は受けてるけど、もっとハッキリと「テレビ向きじゃないよ、アンタの才能は」と言ってやったらどうだ。
……てな言い方もまだ軽いか。 三谷さんには耳がイタイかもしれないが、実は三谷さんのテレビコメディのほとんどは視聴率を取っていないのだ。なのになぜ次々と脚本の依頼が来るかというと、やっぱり「三谷幸喜神話」みたいなものができあがっているせいなんである。 そういった信仰ができたのは、実は『やっぱり猫が好き』『古畑任三郎』の2作品のヒットが大きい。舞台公演のいくつかは確かに出来がいいが、それらは一般の目には余り触れていない。私の勧める三谷幸喜の舞台ベスト3は『12人の優しい日本人』『出口なし!』『笑いの大学』だが、さて、どれだけの人がこれを見ていることか。 テレビシリーズは概してギャグのレベルが低い、あるいはテレビ向きではない、という点でつまらない。舞台に比べて、役者の使い方がヘタってのもあるだろう。
と長々と前置きをしといて、ようやく『みんなのいえ』の話になるのだが、設定の面白さにキャラクターがついて行っていない。まさしく「役者の使い方がヘタ」なんである。
娘夫婦が新居を建てようとする。 娘にはデザイナーの先輩がいて、娘の父親は大工である。娘は二人に自分たちの家を作ってもらおうと考えるが、昔気質の父親と、前衛的な先輩とではどうにも話が噛み合わない。 さあ、果たして家はちゃんと建つのか?
面白い設定だが、このドラマには一つの危険要素がある。 つまり、二人の争いは初めから勝敗が決まっている、ということだ。だって、結局「家を建てる」のは大工なんだから。 実際、ドラマは終始デザイナーの劣勢に次ぐ劣勢、途中、娘が中に入って父親をたしなめるが、それは決してデザイナー自身の力によるものではない。このあたりにこの物語を「舞台」にかけることに躊躇した理由がありはしないか。舞台では二人の力が拮抗したものでないとまるで映えないのである。 さて、この「盛りあがらない」ドラマをいかにカタをつけるか、と思ったら、三谷さん、実は昔気質に見えた父親のほうが職人魂を忘れていて、デザイナーの方が職人としての矜持を持って仕事に当たっていた、ということが判明する。 二人の立場が逆転するアクロバットな展開だ。このアイデアは実に秀逸であった。
でも、この映画で秀逸なところはそこんとこだけなんである。 最初に書いたように、役者の使い方が頗る悪い。 実はここまで、デザイナーである唐沢寿明、父親の田中邦衛、娘の八木亜希子には触れているが、ほかのキャストには一切触れていない。見せ場がないのである。チョイ役キャストならともかく、実は主役である娘婿のココリコ田中直樹に、見せ場がないとはどういうことか。 いや、三谷さんもなんとか田中直樹のシーンを作ろうとして、ラスト近くに嵐が来て家のことが心配になった娘婿、父親、デザイナーが集まるシーンを入れているのだが、これが逆に娘婿の存在がジャマにしかなっていないのである。 こんな「主役を目立たせるいいアイデアが思いつかなかった」ことが露骨に判るくらいなら、そんなシーン、カットした方がマシだ。
ほかのキャストにも触れよう。 野際陽子・吉村実子・清水ミチコ・山寺宏一・白井晃・伊原剛志・江幡高志・井上昭文・榎木兵衛・松本幸次郎・松山照夫・八名信夫・香取慎吾・中井貴一・布施明・近藤芳正・遠藤章造・田口浩正・梶原善・真田広之・戸田恵子・梅野泰靖・和田誠・小日向文世・松重豊・佐藤仁美・大塚範一・エリカ・アッシュ・明石家さんま。 なんだなんだ、この豪華キャストはって感じだが、ほとんどがワンカットだけの特別出演である。 ところが問題なのは、ほとんど出ずっぱりの職人たちにマトモなセリフ、マトモなドラマが与えられていないのだ。江幡さんはそれでもある重要なシーンを任されているが、榎木さんに至っては全くセリフなし。いや、セリフがなくても、この職人たちがいろいろデザイナーに「絡む」シーンがあれば、当然ドラマは盛りあがるのだ。それがない。おかげでチョイ役出演の香取慎吾や明石家さんまのほうが印象に残ってしまう始末だ。これはもう三谷さんは「間違ってる」と判断するしかない。 野際陽子と吉村実子の二人のお母さんだって、もっともっとドラマに絡めることができたはずだ。キャラクターは「風景」じゃないんだよ。
クダクダ書いちゃったけど、もしかしたらほとんどの人がこの映画、冒頭のギャグシーンで見る気なくしちゃうんじゃないか。 主人公の娘婿は放送作家、という設定である(ドラマに関しては全く必然性がない)。 その作家が考えたスケッチが、冒頭で流れるのだ。
マンションの一室の前で、管理人や住人が集まって一人の男を責めたてている。 「何かヘンなもの飼ってるでしょ!」「ここはペット禁止なのよ!」 男はドアに張りついて「何も飼ってません!」と否定する。 中を覗いた住人の一人が叫ぶ。「アっ何か動いた! トカゲのシッポだ!」 誰かがカメラのフラッシュを炊く。 男が悲鳴を上げる。「やめてくれ! 光は嫌いなんだ!」 突然、中から何かが飛び出して逃げて行く。 それは一匹のゴジラだった。
……何かコメントが必要ですか?
今日はしげ、早目に練習から帰宅。 いつもはたいていどこかをふらついて帰ってくるのに、珍しいことだ。少しは私の体を気遣ってくれてるのかなあ、と思ったが、別に看病しようって気配も見せない。 要するに自分もからだがキツイから帰って来ただけか。
練習の様子を聞いてみるが、どうも私の書いた脚本、「説明し過ぎ」とのことである。 第一稿の段階で「意味不明だ」と言われたから、仕方なく説明のセリフを増やしたのに、ワガママなことである。 それぞれのキャラクターにも見せ場を増やしたのに、「あるキャラクターがあるキャラクターだけに関わりすぎてるのではないか」という文句も出たそうな。それがバレないように前の脚本では「さりげなく」書いてたのに、「説明」をしちゃえばどうしてもそうなるのである。 でも、意味さえ通れば「このセリフ、説明し過ぎだから削ろうよ」ってことにもなろうから、こういう過程がどうしても必要になるのである。
穂稀嬢、前回「ヤマさん」のことがわからなかったと書いたが、「アベサダ」も知らなかったそうな。いや、そういうセリフ書いたんだけどね。どういうシーンで使われているかはまだヒミツだ(^o^)。 でもなあ、私の脚本にもともと「古いネタ」が多いことは自覚しちゃいるけどさあ、「アベサダ」を知らないってのは、いくらトシが若いからって、ただの無知じゃないの?(若いと行ってもハタチは過ぎてるんである) いや、もうずっとセンから、穂稀嬢がまれに見る無知女だということは聞かされてたんで、実は脚本でも「まれに見るモノ知らず」役を振ってるんだが、もちろんこれは地で演技できることを狙ってるからである。全く、脚本家とか演出家って類の人間は極悪人である。
けれど、脚本中にあった「S」というセリフは、全員から「意味伝わらないからやめようよ」ということになったらしい。 これだけじゃ何のことかわかんないから、ちょっとだけ中身をバラしちゃおう。
女の子どうしが絡んでいて(もちろん「うっかり」である)、それを見たもう一人がちょっとドキドキして、「まあ、S?」って呟くシーンを書いたのよ。(〃∇〃) てれっ☆
これでもよく分らない人のために説明しておくと、この「S(エス)」っていうのは「Sister」の頭文字なんですね。昔、女学校なんかで、女の子どうしなのになんだかすごく仲よさそうなカップルを見たら、「ねえねえ、あの方たちって、もしかして“S”なんじゃないかしら」とか言ってたんですね。 まあ、ハズカチイ。
もちろん今となってはほぼ死語になっていて、おそらく実際に会話の中で使われてたのは昭和40年ころくらいまでだと思う。私は女学校に通った経験はないから、女の子が使ってるのを実際に耳にしたことはない。いつどこで覚えたかっていうと、母親が使ってるのを聞いたのが最初だ(^o^)。 今はもっと露骨に「レズ」とか言うのかも知れない。 練習場での話し合いでは、「百合」に変えようか、とかいう話になったということだ。 けどねえ、言っちゃ悪いけど、みんな「脚本」ってモノが解ってないよ。ここは、「S」以外ではセリフそのものが成立しなくなってしまうんだよ。
このセリフを言うキャラクターには、どこか浮世離れしている(ように見える)という性格設定がある。 だから「レズ」だの「百合」だの、ストレートかつ今でも通用するようなコトバは似合わないのだ。それに、そんな客に一発で意味がわかるようなセリフを使われても、ただ単に目の前の状況を見て、そのまま説明しただけのことに過ぎなくなる。客に何の引っ掛かりも与えなくなってしまうのだ。 たとえ観客の大半に意味が通じなくとも、ここは「古い」言葉を使ってもらわなければ困る。 意味が分らない客にはここでキョトンとしてもらいたいし、「S」の意味を知ってる観客が「イマドキそんなコトバ使ってるやつがいるんかい」と心の中で突っ込んでほしいのだ。不自然さに気づいてもらった方が、脚本家としては嬉しい。どうも役者は「自分が言いやすいか」ばかりに気を配って、客にどう見てもらうか」ってことにまで気が回らないやつが多い。 だからこそ「演出家」が必要になるんだがなあ。
更に言えば、「レズ」という言葉は直接的過ぎて下品に聞こえるし、やはりこのキャラクターに合わない。「百合」はやや古めかしい感じがしないではないが、もともと「薔薇族」に対する「百合族」という対照語として使われた経緯があるだけで、「S」にあるような「女学生どうしの戯れ」のようなニュアンスには欠けている。「S」というコトバの持つ甘美さも含めて、あえて死語を書いたのだが、そういう意図が読めないというのは情けない話である。 それに「S」というコトバを完全な死語と見なすのはどうだろう。コトバというものは生き物で、いったん死んだかと思っていたら、ひょんなことで復活し、また使われ出す、ということもあるのだ。あえて死語を使うことで、「味わい」を出すという効果もある。『オトナ帝国』を見よ。 それでもどうしても「百合」で行きたい、というのなら、せめて「ゆりゆり?」と二度重ねていただきたい。普通、そんな喋り方をする人間はいないから、これでこのコトバにも「キャラクター」が発生する。キャラクターとセリフが一致するのだ。『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの「泥棒さん?」がゾクゾクッと来るのは、、まさしくこの効果による。そうなんだよ、「泥棒」に「さん」付けしちゃうんだよ、あの「お姫さん」はさ(* ̄∇ ̄*)。 セリフってのは、そこに命を吹き込むことだってこと、忘れちゃいかんよ。
マンガ、川原泉『ブレーメン�供截幹�(白泉社/ジェッツコミックス・650円)。 祝! 4巻突破! これで川原さん、自作の最長不当距離を達成しましたね。 『オペラ座の怪人』を落としまくってたころを思い出すと、なんかもー、それだけで嬉しいですよ。頑張れ川原さん! ついにヘルツォーク編が今巻で完結。 結末は投与されていたナノ・マシーンが暴走して自我崩壊、というあっけないものだったけれど、このままヘルツォークをどんどんバケモノにしていっても、最後は収集つかなくなりそうなんで、早目に終わらせたってとこかなあ。 昔から、「バケモノの最後」は「食いすぎて自滅」だものねえ。『ゲゲゲの鬼太郎』の「アカマタ」「土転び」とか、『どろろ』の「どんぶりばら」とか。ちょっと定番過ぎた結末はやや残念……なんてご本人に言ったりしたらまたスランプになっちゃうんだよな、このひたー(^_^;)。
「インターミッション」は、宇宙征服を企む某宇宙人が、「ブレーメン�供廚龍�然のミスでヤラレちゃう話。オチは言わないけど、これの元ネタも腐るほどあるよなあ。まあ、既成のSFを川原さんの「味」で読むんだと思えば……(^_^;)。
後半は、「ブレーメン�供廚竜ヾ慊后�熊のミーシャくんが、アミューズメントパークの暴走した人型A.I.「アリス」に拉致される話。 キラたちは、早速ミーシャくん救出のためにその「アリス・ファンタジオーソ」に潜入するのだけれど、ゲームをクリアしていかないと、ゴールへは辿りつけない……って、『幽遊白書』? いや、このパターンの最初は「スフィンクスの謎かけ」かな? アリスはしっかり小悪魔してて、かわいいけど、ちょっとネタ切れ的な川原さんが心配……(@_@;)。実際にどの話読んでも、ここんとこ主役のキラ船長がほとんど活躍してないんだよねえ。ホントに続くのかなあ。続けようよう。
2002年01月19日(土) ハルオ再び/『ルパン三世 公式magagine』3号(モンキー・パンチ責任編集)ほか 2001年01月19日(金) DESERT MOON/『パタリロ!』(魔夜峰央)71巻ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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