無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年12月18日(火) バラゴンには女の人が入ってるんだよ/映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』ほか

 今日こそは『ゴジラ』を見ようと、1時間早退。
 なんか休んでばかりと文句言われそうだが、有給を消化しなければならないので、チビチビ休んでいるんである。
 職場まで車でしげに迎えに来てもらって、一路天神を目指すが、腹をすかしたしげ、「マクドナルドに寄る」と言い出す。
 「テイクアウトするってこと?」
 「ドライブスルーに行くの!」
 「……持ち出すって意味では同じだろう、でもそれじゃあ……」
 疑問を訴える間もなく、しげはするするとマクドナルドに入っていく。
 セットメニューやら何やらを買って、再び道に戻って、ようやく「疑問」を口にする私。
 「……で、運転しながらどうやって食べるの?」
 「……ああっ!」
 それでも天神に着くまで、何度かの渋滞の合間に頑張ってしげはハンバーガーを平らげたのであった。
 器用なやっちゃ。

 しげ、それでも食い足りないとかで、天神東宝一階の寿司屋で100円寿司。
 今日は先にチケットを買っておいたので、劇場前に慌てて並ぶ必要はないのだ。
 この「博多新鮮組」という店、以前はネタが高かったのが、不況の折からか全皿100円になっている。それはそれでありがたいのだが、おかげでせっかく溜めておいたスタンプカードが無効になってしまった。たまにしかスシを食わないと、こういうことになるのである。
 ……たまにしか食えね〜って。


 開場10分前に行ってみると、そこそこ客が並んで入るが、混雑しているほどでもない。やっぱり混んでたのは初日だけかなあ、とちょっとサビシクなる。
 全く期待はしていなかったが、入場プレゼントのゴジハム人形、私にもしげにもくれる。……余ったのか? もしかして。
 グッズがいろいろ出ているが、これはイイ! というほどのものはナシ。
 いつもはメダルをほしがるしげも「ゴジラやハム太郎はいい」とほしがらない。
 せめてなんか記念に、とキーホルダーを一つだけ買う。
 これまではたれぱんだのキーホルダーだったのだが、明日からはゴジラ対キングギドラだ。


 『劇場版とっとこハム太郎〜ハムハムランド大冒険〜』
 途中でウトウトしちまったから、マトモな批評はできないけれど、子供向けアニメということを考えても、ずいぶん薄味な展開だと思う。
 飼い主のロコちゃんが人間の友達と遊んでるのを見ていて、ヤキモチを焼くハム太郎。……そんなペットってのもヤな存在だぞ。マジメに見てれば、まずここでキャラクターへの感情移入が阻害されてしまう。
 人間と言葉を交わすことのできない動物の悲しみってのを、もう少し演出で強調できれば面白くなったかなとは思うが、それには基本的にあのかわいいだけのキャラデザインを変えなきゃねえ。目を細めようが泣かそうが、感情が伝わらないキャラデザインなんて、無意味だ。
 テレビシリーズの方はあまりじっくり見たことないんだが、アレかね、『ぼのぼの』みたいに、いろいろムツカシイこと考えるんだけれど、所詮はハムスターなんて、下等動物なんで、どんな感情も三歩で忘れるっていうナンセンスギャグって感じの話なのかね。それならそれで面白いけど、長編劇場版には向かないよなあ。 
 樋口真嗣が担当したという「ミニハムず」のCGシーン、よく動いているしアングルの取り方も面白いのだが、ワザとCGバレバレの映像作ってるのにはなにか意味があるのか? 人形がぐるぐる回ってるだけにしか見えないし、見ていて気色悪くなってくる。ゴジラよりよっぽどこっちのほうが子供に見せるにゃ問題があると思うが(^^)。


 で、いよいよ『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』である。
 無理やりしげを連れてきたこともあって、願うような気持ちでちったあ面白い出来であってほしいと思ったが、見終わっての感想は、「ああ、これは少なくともしげが面白がる映画じゃないなあ」ということだった。
 ヒトコトで言えば、映画として面白くない。平成シリーズにも顕著だった、煩雑な設定や要素が多すぎて、物語がやたら滞る愚をまたぞろ犯してしまっているのだ。
 更に言えば、怪獣たちが戦っている理由をいろいろコジツケているがそこに説得力ってものがカケラもない。
 いったい、金子監督は、どういう映画を作りたかったんだろうか。

 パンフレットには、「怖いゴジラ」「戦争の亡霊としてのゴジラ」「悪役ゴジラ」……つまりは「第一作の原点としてのゴジラ」を描こうとしたとある。
 でもその三つのうち、どれか一つでも達成出来たものがあるだろうか。
 まず、ゴジラは平成シリーズ並みに、相変わらず怖くない。
 そりゃ、幼い子供はゴジラが鳴いただけで怖がるかもしれないが、いくらゴジラが人を踏み潰そうと篠原ともえを殺そうと(^^)、「ゴジラは怖い」「ゴジラ憎し」という感情は生まれてこないのだ。
 それはひとえに、2番目の「戦争の亡霊としてのゴジラ」の設定を作り間違えたところに原因がある。
 天本英世扮する伊佐山老人の言によれば、ゴジラがなぜ現代日本に現れたか。それは、我々日本人があの戦争の記憶を忘れてしまったからだという。……おいおい、それってゴジラが実は小林よしのりってことかよ(^_^;)。
 腐りきった日本に鉄槌を下すためってんなら、ゴジラはいいことしてるんじゃないのさ。
 実際、篠原を殺すゴジラと、暴走族を殺すモスラとに差異はないのだ。結局、悪いヤツら、ふざけたヤツらが殺されているだけなのであって、殺される人間たちに観客は同情しない。
 どうしてあそこでシノハラ使うかなあ。あれが野村佑香だったら、私はきっとゴジラに際限のない憎しみを感じたであろうに(^^)。
 ……いや、今のは冗談だが、演出が結局甘いのである。だって、「人が死ぬ」ったって、死体の描写が全くないんだし。

 第一作のゴジラがなぜ怖く、憎らしかったか。報道の使命に燃えたアナウンサーたちを殺したからだ。戦争で生き残った母子を踏み殺したからだ。
 だからゴジラへの「ちくしょう」という叫びが切実に響いた。
 確かに、ヘリコプターがバラゴンアタックで落とされ死ぬシーンがあり、ヒロインが「あの人たち、死んだ……」というセリフもあるが、第一作とは重みが明らかに違う。それこそ、「戦争の記憶を忘れた」人間たちがいくら死んでいったって、ゴジラへの憎しみはわかない。
 更に言えば、ゴジラが「戦争の亡霊」なら、日本を襲うより、アメリカに行くのがスジではないのか。それともゴジラもまた自虐史観の持ち主か(ーー;)。
 結局、ゴジラはただ無意味に暴れているだけだし、ヤマト三聖獣も、いったい何をゴジラから守っているのか解らない。人間を守ろうとしているのではあるまい。ならば「自然」を守っているのか?
 だったらこの三聖獣こそ、真っ先に日本人を、人類を、滅ぼすべきだったろう。ゴジラ出現よりももっと早い段階で。

 結局、今回のゴジラ、怖くも戦争の象徴にも悪役にもなってないのだ。監督の意図通りの映画になってないという時点で、これはもう「失敗作」と断じていいのではないか。 

 なのに、なんかネットでもこれを絶賛してる人、多いんだよなあ。
 これだけ設定やストーリーに破綻がありまくりなのに「破綻がない」なんて言ってる人まである。これはもう、ずっとゴジラ映画に不満があったんで、ちょっといい点があったらそれがすごくよく見えちゃうという、「だめんずに引っかかる女」みたいに怪獣ファンがなっちゃってる結果ではないのか。
 下手にこんなもん誉めてたら、もっといいもんが出てきた時に、「アイツ、あんなもん誉めてたんだぜ」とか言われちゃうぞ。

 そろそろ東宝には本気で特撮映画を作ってほしいんである。
 ゴジラに結局頼ってしまうという体質自体を変えてもらわなけりゃ、寅さんに頼ってた松竹の二の舞だ。
 そのためには、ホントはこんな言い方はしたくないのだが、「オトナの鑑賞に堪える」映画を作ってほしいんである。もちろん、ただ威張ってるだけの「自称オトナ」でなく、「映画を見る」ことに長けたオトナが楽しめる映画を、ということだ。
 これはもう、ウラミを込めて言わせてもらうが、日本人の自称オトナは、本当に腹が立つくらい映画を見ない。アニメや特撮は初めからガキの見るものということでバカにする。そのクセ、そいつに教養があるかというと、『脳内革命』を読んで真に受けてたりする程度の脳しか持っちゃいないのである。
 ……ホントは、そういうバカは相手にしないで映画が作れたら一番いいんだろうが、そうもいかない。第一、日本の特撮・アニメ界の場合に問題なのは、その作り手自体が「自称オトナ」ばかりだってことだ。少なくとも平成、新世紀ゴジラシリーズを見る限り、そう断定されても仕方ないと思う。
 「この程度の内容で充分」
 そういう「侮り」が制作者たちにあるのだ。
 それが見えるうちは、今回のような注と半端なゴジラを誉めることは、特撮映画製作の道を断ち、怪獣映画のジャンルを衰退させることにしかならないのである。

 誤解のないように言っておくが、今回のゴジラ、私は相当に「気に入って」いる。トシ食ったせいで涙もろくなったせいもあるんだろうが、『ゴジラVSキングギドラ』以降、私は『ゴジラVSスペースゴジラ』を除いて全てのゴジラ映画を見て泣いているのだ。
 もちろんそれは、小高恵美の「あなたがいるから」みたいな腐れたシーンなどではなく、全て特撮シーン、「このカットが撮れるようになったか!」という感動の涙なんである。
 『ゴジラ2000』でも、冒頭の10分には泣いた。
 『×メガギラス』でもビルの壁に張りついたメガギラスの群れに泣いた。
 今回はバラゴンの勇姿である。森林を押し進み、ゴジラと対峙するあの健気な姿、誰が泣かずにいらりょうかってなもんである。
 でも、そんな喜びは、オタクにしかわかんないのだ。
 オタクにしか判らん映画作ってどうする。
 オタク以外の人々にも楽しめる作品を作らないと、「評価」ってのはしてもらえないのだ。
 レベルを下げるわけにはいかない。
 特に、『ゴジラ』の場合、観客の中には既に百人百様の理想のゴジラ像が存在している。もはや何を作ったって、万人を納得させられる作品なんて作れっこないのだ。
 だから、この新世紀シリーズのように、毎回設定をリセットして作りなおす試み自体は、「多種多様なゴジラ」を見せる手立てとしては有効だったかとは思うのである。少なくとも、「今度のゴジラはひとあじ違うぞ!」ということだけはアピールできたんだから。
 何度リセットしてもいいから、「いいもの」を作ってほしい。それだけが願いだ。

 しげが面白かったのは、ゴジラ、バラゴン、モスラ、キングギドラの皮膚をタイトルバックにしたオープニングだけだったとか。
 後の1時間は苦痛だったか。……またこれでDVD買う時、しげの目が釣り上がるじゃんかよう。
 
 劇場を出て来た人たちの反応もどうもイマイチ、といった雰囲気。
 親子連れとオタクな人たちが半々といった感じだが、見た後、たいてい「面白かった〜」とか反応があるんだが、みんな黙々と帰っている。「口にしたくない」って感じがアリアリだ。
 日によって反応は違うんだろうけど、一つのムーブメントを作るほどの作品ではなかった、というところが正直なところだろう。
 帰りに次回『クレヨンしんちゃん』の前売券を購入。
 オマケに手裏剣(吸盤つき)が付いてくる。パソコンの画面に向かって投げるとホントにピタッとくっつくスグレモノである。ゴジハム人形よりよっぽど気が利いてるな、こういうの。


 帰宅すると、こうたろうくんからメールが届いているが、画像が重くて開かない。多分また何かジオラマを作って送ってくれたんだろうが、さて、どうやったら開けるようになるものか。しげに何とかしてもらうしかないが、こうなにもかもしげに頼りっぱなしじゃイカンなあと思いつつ、まだ『HTML入門』は数ページ読んでいないのである。
 ……画像の開き方くらい覚えないと(ーー;)。

 『ゴジラ』について、オタアミ会議室に書きこみ。
 多少、さっき書いた感想とダブる部分もありますが、出来るだけ冷静に振舞おうとしつつ、そうなりきれてないところがお茶目なので、以下に再録します。nifモノじゃなくて読めない人のためでもありんすえ。



 総合的にはおもしろかったからいいや、ということで誉めてる方が多いようですが、私はもう、ゴジラってのはトンデモ映画として楽しむしかないかなって気がしました。
 「ツッコミどころ」程度じゃありません、そもそも「ゴジラは残留思念」「ヤマト聖獣」などなどの基本設定自体が破綻しまくってるのに、通常の意味での「傑作」って言葉はあたんないんじゃないでしょうか。
(中略)
 テロ映画に指定されようが、そういう設定なら、初めから、アメリカを攻めるがスジでしょう。
 そこがまずもって根本的な設定ミスだと思うわけです。ゴジラが日本で暴れる説得力を持たせようとして、見事に外してます。
 いや、映画の「流れ」としても、その設定ミスが足枷になってて、前半のテンポがタルくてもたつきまくってるんですよねえ。人物の行動原理がハッキリしてないものだから、「こいつなんでこんな行動とるわけ?」ってのがネックになってて、観客が映画にノりきれない。
 新山千春演ずる由里が無意味に怪獣に近づきたがるのもアホですが、まあ、これは「江戸川由利子の末裔」ということで許しましょう(ホントは許しちゃいかんと思いますが)。
 けれど、天本英世演ずる伊佐山(だいたいこいつがホントに伊佐山だったかどうか、わかりゃしない)が「ゴジラは残留思念」と言うのを聞いて、由里たちがなんの根拠もなくみんな信じちゃうなんて、あまりにもヘンじゃありませんか? 普通、少しは疑うでしょう。もしかして、こいつらみんな、この時点で天本英世のマインドコントロールによって洗脳されちゃったのか(笑)。それともあいつら全員モルダーなんでしょうか?
 ……あ、そう言えばこいつらみんな、[オカルトBSのスタッフ」だって設定だった(笑)。
 でも、主役が全員「ムー」者だなんて、観客に「登場人物に感情移入するな」って言ってるようなものではありませんか。
 まあ、あの映画の中ではゴジラやヤマト聖獣をバカにするやつらはみんな死ぬ運命にあるみたいですから、主役をのーてんきな信者さんにしなきゃならなかったのも仕方ないのかもしれません。でも、私は申し訳ないんですが、宗教映画にはノれません。

 「英霊」の問題に話を戻しますと、天本さんのセリフを聞きながら、なんだか、『はだしのゲン』で、広島に原爆落とされた直後にお母さんが天皇批判したのを思い出しましたねー。まあ、日本軍部の不甲斐なさはあったにしても、落とされた方の落ち度ばかりを責めて、肝心の大量殺戮兵器を落とした方の人道上の罪を責めないんなら、そりゃ結果的に原爆投下を認めたのと同じですって。
 それともなんですかね、ゴジラの霊の中には太平洋で死んだアメリカ兵の霊も混じってるってことですから、死んでからも日本兵はアメリカ兵にこびへつらって、日本を攻めることにしたんですかね。そんな情けないゴジラ、ゴジラじゃないやい!
 「日本人が堕落したからだ」って天本さん怒鳴ってましたけどねー、それはその、英霊たちの思いじゃなくて、天本さんご自身の怨念なのでは(^_^;)。で、天本さんがそう言ってるってことは、要するにヤマト聖獣の思いだって、実はゴジラと変わらなくて、今の日本に対して憤ってるってことですからねー(だからバラゴンもモスラも日本人を平気で殺してる)。
 つまり何が設定上、一番破綻してるかって、あの怪獣たちが闘わなきゃならない理由がないってことなわけです。

 ……なんだかいつぞやのゴジラVS沢口靖子もガクッと来ましたが、今度のは要するにゴジラVS天本英世。そう思って見ると確かに笑えて楽しいんですが。
(中略)
 ゴジラ映画に相応しいベストとは言えないんじゃないですかね。
 特撮は確かに誉めるべきところもあるけれど、ギドラがキングギドラになったって、口で言うだけじゃねえ。あれは絶対、ヤマタノオロチに変化させなきゃ怪獣ものとは言えません。
 もう「ゴジラ細胞」だの「残留思念」だの、妙な理屈はどうでもいいです。映画の流れがもたつくだけだから。
 平成ゴジラにやたら目立ってたしょぼいメロドラマの影がやっと薄くなったと思ったら、今度は軍人の護国意識だの、親子の交流だのと、怪獣に襲われてるってのに、何を自己陶酔してばかりいるキャラがウロチョロしてるんでしょうか。
 これを誉めるなら、『オール怪獣大進撃』もキチンと評価すべきだと思います。
 だって、怪獣がユメマボロシって点では同じじゃないですか。

2000年12月18日(月) もしかしたらあなたも覗かれてるかも/『だから声優やめられない!』(山寺宏一)



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