無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年12月07日(金) なっまえっ、そっれっはっ、もっえっるっ、いっのぉちっ/『ガゥガゥわ−太』1巻(梅川和実)ほか

 新宮様の名前が敬宮愛子(としのみや・あいこ)に決まったそうな。
 常識のないやつはまた、「敬宮が名字で愛子が名前なのかな」とか、「え? 天皇家ってみんな名字が違うの?」とか言い出したりするんだろうな。
 当たり前の話だが、天皇家には名字がない。
 名字はあくまで天皇家が臣下に与えるもので、名字のことを「姓」とか「氏」とか言ったりするのは、まあ、神主さんが氏子を持ってるようなものだ。戦時中の「天皇の赤子(せきし)」って意識もこの辺から来てるわけやね。
 だから、未だに日本には差別が残ってると言う人も多い。「天皇制をなくせ」というわけだが、となると、天皇に「名字」を与えることになるのか? でもそれじゃ本当の意味での差別の撤廃にはならないよな。「名字」そのものが天皇を中心とした「家長制」の象徴なわけだから。
 だから、本気で差別をなくそうと思ったら、名字そのものをなくしちゃわなきゃならないのである。ただの「太郎」と「花子」になるわけだ。それじゃ何百人もの「太郎さん」「花子さん」がいて区別がつかない、と仰るなら、名字の代わりにセカンドネームをつければよろしい。「太郎=次郎」とか「花子=雪子」とか。
 え? 二人いるみたいで漫才コンビみたいだ? なら、「家」という継続性を無視した名字をつけていいってことにしたらどうだ。つまり親が子供に名字と名前の両方をつけるわけ。
 「私は山田太郎だったけれど息子は里中悟にしよう」とか。
 ……個別認識ができればいいだけなら、これで問題は生じないでしょう。

 それにもかかわらず、「差別反対!」を唱える人たちが「名字の撤廃」を唱えないのは、本気で差別をなくそうなんてことは考えてないからなんだね。
 「やはり家族の絆は必要だ」とか、「私も親の名前を継ぎたい」とか、名字を撤廃しないリクツはいろいろつけようとするけどさ、でもそれは結局「差別はなくせない」と言ってるのと同義なんだよ?
 名字が違ったくらいで壊れるような絆なら捨てっちまえ。
 名字を継ぎたいってことは結局自立したくないってことだ。
 たとえ具体的に親の七光りを期待してるわけじゃなくても、既成のものに依存したがる心が「階級」というシステムを温存してきたのだという認識があまりになさ過ぎないか。
 本気で差別をなくそうと言いたいんだったら、そこまで考えて主張しろ。

 もちろん、私は「名字をなくせ」なんて言おうとは思わない。
 もう、はっきり言っちゃうけど、本当のところ、ある程度の差別は必要だと思ってるからだ。
 私だけではない。
 全ての人がだ。
 差別をなくせと言ってる人も含めて、実は全ての人々が、意識的ないしは無意識的に差別を必要としている。
 それは、「誰かを差別すること」によってしか、人は自己のアイデンティティを確率できないからだ。
 「自分が自分であろうとすること」それは結局「他人は自分と違うこと」を認めることに他ならない。
 「アイツとオレは違う」……この判断の中に、自分の優越性を持ちこまずにいられる人間がどれだけいるだろうか。

 こういうこと書くとまた「差別主義者」とか言われちゃうから、また念のため付け加えとかなきゃいけないんだけどね、私ゃ別に「ユダヤ人虐殺」を肯定したりする気はサラサラないからね。
 「人間はいや、生命は基本的に他者を差別することでしか生きられない」って根本的なことを言いたいわけ。その前提を無視した差別撤廃論は、全て机上の空論にしかならないって言いたいだけなの。
 どんなに「差別すまい」と思ったって、自分を守るために他者をないがしろにしてしまうことは誰にだってある。自分が差別をしてしまうことの覚悟と、自分が差別されたときに他者を許す心との、両方を持とうとする意志のない人間に、「差別」について語ってほしくなんかないのだ、私は。

 まあ、それは余談であって、今回の命名でビックリしちゃったのは、出典が「孟子」からとは言え、「愛子」の読みが「あいこ」だったことなんだね。
 それのどこがおかしいの? と言われるかも知れないけれど、愛子ちゃんのひいひいばあちゃんにあたる大正天皇のご生母、柳原愛子は「やなぎはら・なるこ」という読みかただった。つまり、天皇家の子女は基本的に和音読みするのが普通だったんだよね(中宮定子とか彰子を「ていし」「しょうし」と読むのは通称で、ホントは「さだいこ」とか「あきらこ」とか読んでたとおぼしい)。
 そのへん、天皇家も「日本の」ってことに拘らなくなってるんだなあ、という感慨があったんである。
 それにしても、これで日本中に「敬子」ちゃんや「愛子」ちゃんって付ける親が増えたりするのかなあ。でも紀宮清子内親王ご誕生の時に「清子(さやこ)」って子供が増えたって話はあまり聞かなかったが。


 ネットではもう一つ、今月初めに起きた誘拐された子供の名前で話題が盛りあがっている。
 「騎士」と書いて「ナイト」と読ませる。
 親のナルシシズムをまんま子供に押しつけてる馬鹿さあたりがからかいの対象になっているのだけれど、こうまで極端でなくても親が子供に余計な思いを押しつけてる例は多くないか。
 例えば昔に比べて一段と増えた女の子の外人名前。
 「麻里安」だの「珠里」だの「恵美」だの「莉奈」だの(なんかみんな特撮・アニメ系で見たような)、指摘されなきゃ「あれ、それって外人名前だったっけ」と首をかしげられるくらい浸透してるものだってある。まあ、「迦芽崙」とか「如出依」とかいうトンデモナイつわものはそうそういないだろうけれども「日本人とも外人ともどっちでも取れる」という微妙な線を狙った名前はホントに増えたね。「めぐみ」なんかも、「メグ」って呼べばあっと言う間に『若草物語』の世界。
 それに比べて、男の外国人名前はなかなか作れない。
 どっちにも取れるって、「丈」、「譲次」とか「健」くらいだもんな。映画監督には「吐夢」ってのがいたがあれはあくまでペンネームみたいなもの。たまには「弁蛇民」とか「歩婆人」とか付ける馬鹿が出てくりゃ面白いんだけどな。
 そのことを考えると、この「騎士」くん、「当て字で読ませる」という行為がやっぱり「日本語」と「外国語」の妥協の産物なワケで、実はそれほどトンデモってほどでもない。だってローマ字で書いたら「NAITO」なわけで、「KNIGHT」にはならないもの。
 やっぱりこれから21世紀を担う子供たちにならば、親は、そんなどっちつかずの姑息な付け方するんじゃなくて、たとえどんな差別や迫害を受けようが、それをふっとばすほどの珍名・奇名をつけてってほしいとは思うまいか。
 アニメオタクならば、女の子に「アンシー」だの「セイラ」だの「クラリス」だの、堂々とカタカナのまんまでつけたいものだよなあ。
 ……うちにムスメが生まれたら「ヒルダ」にしたいな(^^)。
 ああ、息子はいらん。後のドキドキ感がないから(なんのだ)。


 昨日に続いて晩飯はゼイタクにスシ。
 しかし回転寿司のクセに「すし大王」のネタはバカ高。そうそう来れる店じゃない。こないだ来たのはいつだったっけ。もう半年以上前じゃないか。
 なのに結構繁盛してるようなのは、種類の豊富さによるところが大だろう。思いきって食ったトロが一皿850円。これだけで既におなか一杯だ。
 しげのここでのお気に入りは山盛りの卵サラダの軍艦巻きである。
 しげは卵好きだが、店によって、同じ卵焼きでも好きなものとそうでもないものに分れているようで、ここでは普通の卵焼きのスシは食べようとしない。別の店ではご飯なしの大卵焼きのみを食べたりする(それって既にスシじゃないじゃん)。
 要するに「スシの雰囲気」が好きなんだろうなあ、味音痴だし。ちなみにウチで卵焼きを作る時は必ず目玉焼きなんである。どういう拘りなんだか。


 夜は、部屋の中のクッションが大分ぺしゃんこになってきたので、しげが買って来たビーズを二人で入れる。これが意外と重労働で、1時間は軽くかかってしまう。
 それというのも、発泡スチロール製のこのビーズ、静電気のせいでやたらと服にくっついてくるのだ。袋を空けてクッションの中に落としても、ふわりと浮き上がってきて袋の表面を舐め、こちらの服に飛んでくる。
 これをいちいち小休止してはクッションの中にひと粒ひと粒入れていくのだから手間がかかってしょうがない。いいかげんで疲れてダウン。


 夜は某サイトでチャット。
 事情があってそのへんの詳しい事情は書けないが、とっても楽しい会話が楽しめたのであった。
 しげが一時期チャットにはまってたわけ、分るなあ。


 マンガ、梅川和実『ガゥガゥわ−太』1巻(新潮社・530円)。
 「コミック・バンチ」コミックス創刊第2弾。
 動物の言葉が理解できる主人公、というのは決して目新しい設定ではないが、その主人公が「言葉がわかるのに動物を嫌ってる」ってところに作者の工夫がある。
 社(やしろ)動物病院の息子、太助はモノノケの子孫(コマイヌ様とオイナリ様の間に生まれた……うわあ、スゴイ異種婚)。
 かわいい女子高生、船越みさとに連れられて病院にやってきたガウ犬(=すぐ噛む犬)・わ−太と触れ合った時から動物の言葉がわかる能力に目覚めた。
 人間と(特に女の子と)親しくなりたい太助にとっては、ドーブツの声が分るなんて力は邪魔なだけ。わー太を引き取ることになってもケンカの毎日である。
 けれどそんな中でいろんな動物たちと触れ合って行くうちに太助の心の中で何かが変わっていく……と、そんなストーリー。
 コメディタッチではあるけれど、実にハートウォームな話だし、絵柄もずいぶんかわいい。これが原哲夫の『蒼天の拳』なんかと一緒に「バンチ」に載ってるってのは相当違和感があるんじゃないか。
 まず線が細い。『山下たろ−くん』の1/20くらいかな(←適当)。細いだけじゃなく、動物のキャラ、相当に描きこんである。もちろんギャグキャラになることもあるが、基本的なデッサンは相当積んでる感じだ。黒目がちな眼、一本一本の毛の柔らかさ、そんな細かいところにまで気を配って描かれている。人間のキャラも繊細な印象なんだけれど、それ以上に「動物を描きたい!」という作者の気持ちが伝わってくるようだ。
 うまい新人さんはイマドキ珍しくなくなってるんだけれど、それにしても群を抜いたうまさだ。……ホントに新人か? この作者。
 で、この作者、どういう人かと気になって、ネットで調べてみた。どうやら女性らしい。しかも、今はどうだか知らないがもともと獣医さん。……動物を好きなのも当然か。
 マンガの中で、耳にイタズラでホチキスをつけられて血だらけになってる犬(わー太)が病院に運ばれるシーンがあるのだが、多分これ、作者自身の経験じゃないのかな。
 犬や猫の気持ちがわかったらいい。これは、マンガ上の定番だからということではなくて、作者自身の思いから生まれてきた自然な設定なのだろう。……だとすると、ますます、「定番」だけを追い求める“ジャンプのシッポ”、「バンチ」にゃ似合わない作品だよなあ。

 実際、新連載の予告ページには、たしか「かわいい女の子キャラマンガ」みたいな紹介のしかたがされてたように思う。……いや、そりゃヒロインのみさとはムチャクチャかわいいが、あくまでワキ。主役は太助とわ−太のデコボココンビだ。「女の子もの」と「ドーブツもの」とじゃ、全然ジャンルが違うやんけ。宣伝の仕方がデタラメだ。
 バンチ、もしかしたら雑誌戦略においてジャンプのクソなところだけ踏襲してるんじゃないか。
 作者の梅川さん、デビューはもともと「少年ガンガン」だったとか。そこから「バンチ」が引き抜いたってのは、やっぱり梅川さんの「絵柄」に魅力を覚えたからだろう。でもその理由が案外いい加減なものだったんじゃないかって懸念がしてならない。「メインが『蒼天』じゃ雑誌の色が濃いからさあ、フワっとしたかわいい絵柄の女の子マンガも載せようぜ、『マガジン』の『ラブひな』みたいにさあ」とか適当な理由で選ばれたんじゃないかな。
 そう言いたくなる理由はもう一つ、この連載、始まったばかりだというのに、どうやら一度打ちきりの危機を迎えたらしいのである。これもネットで知ったのだが、編集部がある種の路線変更を作者の梅川さんに伝え、それを拒否したところ「打ち切り」をちらつかされたというのだ。
 「売れるためだからと言って、そこまで話を壊す事は出来ないんです。なんだか壊れていく作家の気持ちが少し分かったような気もします(笑)。
 漫画を一体何だと思ってるんだ。打ち切りって言えばなんでもきくと思ってるんでしょうか。」
 というのが梅川さんのホームページに載せられた言葉。一体どんな要求をされたかは憶測するしかないんだけれど、どーせ「みさとちゃんのヌード出してよ」とかそんなレベルのことだろう。商業原理としてのジャンプシステムを評価しないわけではないが、バカに編集させちゃいかんよ、絶対。

 本作のエピソードの一つに、「自分が黒猫であるために飼い主に不幸を呼びこんでいるのではないか」と悩む猫の話がある。
 何気なく我々も見逃していることだが、これって明白な「黒猫差別」だよなあ。もしかしたら、こういう根も葉もない迷信をまともに信じてて、黒猫を捨てたり殺したりしてる“現実”もあるんじゃないだろうか。そういうことについても作者はずいぶん怒り心頭に発してるんだろう。
 話に固さは残るが、「定番」だらけの『バンチ』の中では、一番読んでて面白いマンガだ。『バンチの良心』と言ってもいい。こういうマンガ家さんが、つぶれていくようじゃ、日本のマンガシーンもジリ貧だろうと本気で思う。もし、ホントに打ち切りになっても、どこかが拾ってくれよ。意外と何でもアリの『チャンピオン』あたりが合ってる気もするが。


 マンガ、矢崎存美原作・安武わたる作画『ぶたぶた』(宙出版・730円)。
 徳間デュアル文庫シリーズの『ぶたぶた』のマンガ化。
 作者にゃ悪いが、原作のマンガ化としては可もなく不可もなくといったところで、こっちを先に読まれたら、原作の続きを読みたくなくなっちゃうんじゃないかって気もしてしまう。
 つまりはレディコミのコマ割りでファンタジーを描くことにムリがあるんだろう。説明が長くなりすぎるのではしょって書くが、レディコミのコマ割りの特徴の一つに、遠近感を曖昧にする、というのがある。出来るだけ背景をボカし、二人以上をコマの中に描き入れることをせず、モノローグを多用し、映画的モンタージュを持ち込んで、画面をファンタジックにしていく。
 確かに『ぶたぶた』は現代の御伽噺ではあるが、レディコミの持つファンタジー性とではあまりにも質が違ってやしないか。『ぶたぶた』の面白さはもっとリアルな現実の中にファンタジックなものが混じりこむ違和感 ――まさに演劇的な―― 点にあるんじゃないかと思うのである。現実そのものをファンタジックに描くレディコミじゃ、その違和感は表現出来ないのだ。
 ロボトロニクスがもっと向上して、「生きているようなぶたぶた」が作れるようになったら、映像化もいいかなと思えるんであるが(CGじゃダメだねアレは)、今は小説読んで想像力膨らませるだけで充分じゃないかなあ。
 あ、そうか、『シュレック』にあまり興味が湧かないのはアレがCGバレバレだからなんだな。


 マンガ、石ノ森章太郎原作・MEIMU漫画『キカイダー02』3巻(角川書店・5670円)。
 世間ではご批判もいろいろあるようなMEIMU版『キカイダー』だけれど、21世紀に石ノ森作品をフィーチャーして行くプロジェクトの一貫として考えれば、色々な試みがあっていいと思う。
 ハカイダーの脳が光明寺博士のものでなく、兄、イチローのものであるという改変も別にいけないとは思わない。ドラマ上の変更は演出の範囲内だし、その改変があってなお、石ノ森ワールドが壊れていなければ、それはその世界の幅広さを証明することになるからだ。けれど、やっぱりハカイダーの眼には表情があって欲しかったな。俯くと不敵な笑いに見えるところがよかったんだから。
 「ダーク」が滅びてもいないのに、早くも名前が語られた「シャドウ」の存在、どうやらジローたちの味方でもないらしい風天(「瘋癲」と改名……いいのか?)和尚による“六体”の01の開発。この怒涛のアレンジはどうだ(と言われても困ろうが)。
 となると、「イチロー」としての01は登場しないのか。それどころか結末も大巾に変わるのだろう。ジローの破壊やミツ子の死なんてことも考えられる。こうなると自分でも空想を膨らませて「こういうキカイダーもありか」なんてストーリーを作りたくなってくるなあ。いや、私にはキカイダーのメカ描くだけの画力はないけどさ。
 ……それに、それって「同人マンガ」って言わんか(^_^;)。

2000年12月07日(木) 仕事三昧、遊び半分/『虚無医院』2巻(林光默)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)