委員長の日記
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県北の三次市で行われた反戦集会に参加した。 4月に、岐阜県可児市の呼びかけで、JAZZピアニストの河野さんに三次市の歌を作ってもらって、そのコンサートを企画したKさんからメールでお誘いを受けたのだ。 あまり行ったことのない地域だし、集会の場所も良く分からないまま、たどりつけるかな・・って心配だったんだけど、こんなとき、私は大抵、勘でたどり着いてしまう人なので、なんとかなるさ…って、思ってた。 案の定、ほとんど迷うことなく会場に到着。 (地図もないのに、よくやるよな・・)
でも、行ってみて驚いたのは、あまりにも少ない参加者の数・・・ いくら小さな町だとはいえ、県北の中心部なんだから、せめて50人くらいの参加者はいるかなって期待してたのに、私が行ったときにはせいぜい7〜8人しかいなかった。
3月20日に、平和公園で座り込みをやったときのメッセージがかかれた横断幕などを、フェンスに貼ってあったので、かろうじてここだな…って分かったけど、そうじゃなかったら、そのまま行き過ぎてしまうところだった。
でも、私は私の意志で来たんだから、ちゃんと意思表示をしよう!と思って、誘ってくれた主催者のKさんに挨拶・・ 実は、彼女とはこれが初対面・・これまではメールのやりとりだけで互いに面識がなかったけど、幸か不幸か少ない参加者のおかげで、すぐに見つけることが出来た。
彼女の挨拶のあとで、参加者から一言ずつメッセージ・・・
「何も出来ない・・ではなく、何かをしなければいけない!」という、他の地域でも平和集会やデモ行進を行っている人たちからの発言や、被爆体験を持つ、年配の方からの発言。 お父さんが被爆後45年目に突然白血病を発病し、そのとき初めて、家族に被爆していたことを告げたという経験をもつ女性からの発言。 中国からお嫁に来られた女性は、片言の日本語で、強く強く反戦を訴えていた。
また、地元の小中学生で構成する『戦争に反対する子どもの会』のメンバーは、「私たちにはなぜ戦争が必要なのか、どうしても分かりません!」と涙ながらに訴えていた。 また、東京大空襲のときに女学生だったという年配の女性は、無差別爆撃の恐ろしさを語ってくれた。
一人一人の話に耳を傾けてるうちに、あっという間に予定されていた3時間が過ぎていた。
最終的には20人足らずになっていた参加者の一人一人が、それぞれの思いを持って、その場で反戦の決意を新たにすることが出来た集会だった。
私自身、自分に何が出来るのだろう…思い悩んでいただけに、今回の集会はとても元気付けられるものだった。
事務局長のFさんのこの春、小学校5年生になるNちゃんが、連日のテレビ報道を見ながら彼女に『お母さんたちは何もしないの?』と尋ねたと言う。 そう・・・きっと、私たちに出来る何かがあるはずだ。
委員長

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