- 2012年02月27日(月) 私がいないと寂しい、と、いう夫と、一緒に暮らしている。 もっとも私はしょっちゅういないし、夫だって週末以外は基本はいない。 いつ結婚したか? もう1カ月と少し前になる。とはいえ一緒に暮らしたのはまだ10日に足りたかどうかというところだろう。私にはそれで十分だ。 私にはたとえばチャーチルやトールキンが必要だ。たとえばエンデや伊達政宗や徳川家康や毛利元就が必要だ。黎明と薄暮、真闇にめぐる星空が必要だ。カメラは必須だし、束になっておそってくる人間世界の幸不幸だって要る。もちろん夫も要るが、かれが満たしていいのは私の100のうちせいぜい23から24までで、それ以上の私は私のものだ。こんなことを聞いたらきっとがっかりするんだろうが、それはあらかじめ言ってあるからがっかりし損というところだ。 愛をラブとするかアフェクションとするかはおいといて、それがそれだけで完全であることはけっしてない。小暗い街路を廃墟を歩いて、歩き抜けてたどりつくからこそ、我が家の明かりは暖かく幸福なのであって、その道程を差し引いての郷里価はけっしてありえない。 ある種の手法をもって計測するなら私は現在たいへん幸福であるのだろうが、これを守りたいとは思っていない。幸福になりたいと思ったことがないように、この幸福にとどまりたいなどとは思いもしない。 ただいつか必然として過ぎ去るなら、そのときはこの幸福な生活というものがいかなる記憶としてこの心に残るのでろうかと、頸をかしげて考え込んでいる。 -
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