終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2012年02月26日(日)

政治的な次元に見る「戦争」というものについて考えていた。
直接の材料はチャーチルの「第二次世界大戦」という回顧録である。

これまで、数はさほど多くないながら戦記物は幾らか読んできた。
しかしそれらの多くは一戦士、あるいは将軍の記録であり、それは胸躍る「戦争譚」ではあっても、政治という視点ではなかった。
政治の次元における戦争というのは、戦記すべての裏側にあるものだ。
戦友を悼む涙、家族を失う悲しみ、家を追われる悲惨の背後にあるものだ。

チャーチルは数万人の兵士の死を淡々と報告する。
軍事、戦闘はかれの領域ではない。かれの領域はそれらにあたる将領の人事である。それらの戦闘を支える同盟国や敵国や中立国との関係性を整えて、戦略ではなく戦術における勝利をはかることである。究極の勝利をほとんど当初から、それこそバトル・オブ・ブリテンより以前から疑っていないチャーチルにとってTo be or Not to be?と問う必要はなかった。かれの問いは常にHowから始まり、勝利に至るベストとは何かということだった。
そしてこの一群の問いのなかで、次第次第に比重を加えてくるのは、戦後とはいかなる世界であるべきかという問いである。スターリンを相手に、ルーズベルトを相手に、蒋介石を相手に、チャーチルは熟考する。チャーチルは問う。これは必ず戦争の政治と言う側面であり、これはまさしく政治のレベルにおける戦争である。未来を勝ち取る、なるほどよろしい、とチャーチルは尊大に言う。だが勝ち取られるのは、国民数十、数百万の血と苦悩をもって勝ち取られるのは、いかなる未来であるべきか? チャーチルはその対価にふさわしい世界を創らねばならない。(もっとも歴史のずっとあとのほうに棲む我々はそれがいかなる世界かを知っており、それゆえその一挙手一投足にある種のいらだちを感じずにはおれないのだが)

とはいえすべては人間のすることである。誰もその時点においては何がどう転ぶかなどということは知っていなかった。すでに自明な危険でありながら「敵の敵は味方」とう論法で盟友となった共産主義のロシア、世界に対して異なる絵図を持つアメリカ、そしてチャーチルのイギリス。戦争が終われば膨大な負債が頭上に降りかかってくるのは目に見えている。偉大な戦勝国は同時に破産寸前の浮浪者となる。勝者は要求せずのルールを自ら破らぬかぎり。それともチャーチルには見えていなかったのだろうか?それはわからない。おそらく見えていたのだろう。見えていてなお、この戦争を避けるすべはなかった。それはそのあとの状況を避けるすべもなかったということなのだから、すべては不可避であった。

政治の視点から見た戦争というのは奇妙であり不思議である。少なくとも戦記物にみるあざやかな喜びはない。チャーチルは正義の味方ではない。ナチとヒトラーがどこにおいても譲歩し満足して矛を収めることがないと知ったからの参戦の決意であり、スターリンの手の血にまみれていることをよく知りながらの同盟であった。だが政治とはそういうものだろう。そういうものであったし、今後も常にそういうものであることだろう。かれのいわゆる自由社会を守ることの正統性が国民を戦争に向かわせるものでなかったならばそんなものは弊履のごとく投げ捨てて使わなかったに違いない。かれはナチに勝利しようと決意しただけの男であって、付け加えられた栄誉や威厳はすべて後の時代のものが勝手にそうしただけのことである。


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