- 2009年04月16日(木) 腹を下して、本日は久しぶりに病欠だ。 ドストエフスキーの『作家の日記』を読んでいる。 いわゆる随筆、あるいは論文に分類されるだろうが、 言ってみればこれはジャーナリストとしての彼の側面、 社会・政治の事象に対する知見を述べたものである。 もっとも、いわゆる新聞記事的な書き方はしていない あくまでドストエフスキーという個性の書いた随筆であり論文である。 範囲はじつに広く、当時ロシアで取り入れられて間のない陪審員制度、 後世を思えばある種の感慨を覚えずにはいられない社会主義論、 「その時代」に描かれたものとしてきわめて興味深いクリミア戦争、 そしてなにより「ロシア的魂とはなにか」という数多い言及― いわば、小説では昇華され、純粋なものとされていた思想が、 まだ生々しく血を滴らせていた時代のものだ。 『カラマーゾフの兄弟』の新訳が売れていたのは少し前だが、 ドストエフスキーというのは、ことさら日本人が愛好する作家だ。 もちろん、愛好しているのは日本人だけではないが、 そして多くの人々が多くの理由でかれの作品を愛好しているのであるが、 それにしても、かれの何がこれほどわれわれを引き寄せるのだろうか。 それはおいといて、 面白いのはかれがロシア正教徒とロシア人とロシアという言葉を、 ある意味でほとんど同義に使っているということだ。 国民国家というものが存在するならば、それは問題ないかもしれない。 だがロシアにおいてそれはどうだろう。 かれが「私たちロシア」というとき、どれだけの人々が、 「いいや我々はあなたがたとは異なる」といわなければならないだろう。 そしてまた、もう一つ面白いのはかれが世界をヨーロッパと同義に 使っているということである。まったく留保もなく。 アジアはかれにとっても蛮地であった。 おそらく植民地主義に対しても、まったく疑念を抱かなかったろう。 間違いなくかれは卓越しているが、同時に時代の子であった。 -
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