終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2009年01月12日(月)

「真景累ケ淵」を読み終わった。
高座にかけた落語を口述筆記を新聞連載したのだから、
これはまさに新聞小説であるともいえよう。
実に面白い。

怪談といいつつ、面白いのはこういうことだ。
登場人物は幽霊を見るが、話者は確かにそれを幽霊と名指しはしない。
聞き手はそれが彼または彼女の良心にのしかかった幻影なのか、
それともそうではないのか、判然としないまま聞き続けなくてはならない。
入り乱れる運命の錯綜に混じって、これは実に繊細な心理劇だ。

しかしそれは幽霊にとどまらず、恐ろしいことに、
主要な登場人物は誰ひとり、この錯綜した不幸と悲劇と殺人の連鎖の
その最初の起点であるところの盲人殺しについて知りえないところにある。
盲人は酒乱の武士に殺され、下手人の知られぬまま葬られるが、
その秘密は、主役である武士の子供たち、あるいは盲人の子供たちは、
この最初の殺人の秘密からは隔てられている。隔てられ続けている。
そして最後に至っても知らされることはない。

これはどういうことであろうか。
殺された盲人の怨念は、膨れ上がり物語を覆い尽くすがごとくなるのに、
まさにその血臭芬芬たるさなかにあるものたちはそれを知らない。
ただ聞き手のみがこれを飲みこんで見つめているほかない。
そうするうちに、じつに奇妙な気分になってくる。
この悪と残忍と不運の連鎖は、本当に盲人の怨念によるのだろうかと。
実際はこれらは単に偶然と登場人物らの意志によるもので、
怨念や幽霊などというのはそれこそ神経ではないのかと。

だがその不安は揺れ動いて揺り戻し、いやその最初の怨念こそ、
蜘蛛の糸のごとくに人々をからめとり、悪へ追いやっているのかとも思う。
下手人を明らかにされずその死にまつわる犯罪を闇に葬られた、
盲人の怨念はまさに棺桶の隙間から漏れ出て暗雲ともなっているのかとも。
この不安な波は止まず、しかも決着はつけられない。
話者と聞き手の間にあるこの緊張関係は、
ギリシャ悲劇というよりもシェイクスピアに近い。
われらは悪というものに対する見方を問い返されるのだ、絶え間なく。


そして人物というものを描くこの繊細さ。
落語というものがおおむね物事を類型化・単純化するのに対して、
高座にかけられたとはいっても、もともと活字に向いていたのであろう。
もちろん、いくつか、陳腐でもあり定型的な部分もある。
それはたとえば、四谷怪談にもある「蚊帳はぎ」だったり、
妻としていた女がじつは妹であったりするというところで、
これらはいわば、典型的人物描写の挿話とでもいうべきものだから、
そんなにきつく咎めるには値しない。


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