終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年08月11日(月)

九番目の波

 かれのことを話すとき、私はいつも、一種奇妙な感情に襲われる。
 これを、どのように説明したらよいのだろう?
 不安と恐怖は確かにその要素としてあるが、それがいったい何に対してのものなのかと問われれば、かれ自身なのか、かれの運命なのか、それともかれについて物語ることについてなのか、わたしにはわからないからだ。

 ともあれ、話を続けよう。

 かれについて話すとき、わたしはかれの名前よりも、その顔よりも先に、胸のうちに見るものがある。それはかれの在所であり、死の場所ともなった崖の上の家の、その海に面した窓辺であって、二つ岬の彼方に名もない岩礁の島々の浮かぶ沖までも見渡すことができ、嵐でもなければいつも開け放たれて、潮の香りのする風が通っていた。
 そこから見える風景の中でも、ことさら美しいのは夕凪で、夕映えの海が静まり波音さえも絶えて、空も海もひとしく赤く染まるなかに、遠い島々が果たせぬあこがれそのもののよう暗く蹲っている様子は、例えようもなかった。そのようなときかれは必ずその窓辺に立っていた。かれが何を思っていたのか私は知らない。ただそうした夕べのあとには、かれは決まって一人になるのを嫌うようにわたしを引き止め、夕食とチェスの勝負を申し出た。

 九番目の波の話は、そうした夜の、チェスの勝負の間に聞いたのだった。
「いいかね、きみ」
 かれはそのように、いつも話を始めた。盤の上はもうよほど私の劣勢で、勝負そのものからかれの興味がそれてはいても、まだ手の方は終わっていないというころあいに、かれは、今でも私が忘れることのできない、あの海に沿った険しい土地に伝わる古い話を幾つもしてくれた。そして九番目の波の話もまたそのひとつであり、しかも最も印象深い物語だった。
「いいかね、きみ。波の話をしよう。


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