終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年07月02日(水)

手元に一枚の絵葉書がある

法隆寺金堂壁画のうち、阿弥陀浄土図の観音菩薩がおわす絵葉書だ。
もっとも、この壁画群は火災で焼失しているので、
この絵も昭和の43年ごろに再現されたものではある。
焼失以前の原画の面影をよく伝えているかどうかは知らない。

実は先月の末に帰省したのは、この壁画を見るのが目的だった。
奈良の博物館で特別展示をやっているのだ。
普段はなにしろ金堂の壁だもんだから、薄暗くてよく見えないのだ。
それで、なぜこの観音菩薩なのか。
よく知られているように、この菩薩は美しい。
美しく、なまめかしい。

すべての仏画がそうであるように、この菩薩も写実的ではない。
これはどういうことか。この菩薩は人がその心の中で夢見た像だ。
存在したこともなく、存在することもなく、存在するはずもない像だ。
こうした顔を、この顔を、夢見ることのできた絵師こそ幻視者ではないか。

愛するものの顔ではない、憎むことも不可能であろう。
悲しみやそのほかあらゆる感情はこの顔の奥に宿ることはできまい。
その口は開かれることはない。そのまなざしはあげられることはない。


菩薩よ、あなたは


焼失してなおあなたは、そこにおわすのか。
あなたの美は失われることのできることの種類のものではない。
あらゆる真珠はあなたの光輝の照り返しではないのか、あらゆる波頭は。
あなたはあらゆるみずうみ、あらゆる死者のおもざしに宿る美ではないのか。
人はみな、あなたの美だけを愛しているのではないのか。

そして一人の絵師が、その秘密をあばいたのだ。
まことに恐るべき幻視をもって。


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