- 2007年12月05日(水) 杯を砕いて外に出よう さて、節約を強いられる身になって初めて気づいたのだが、 人には2種類いる。 一緒に出かけて金のかかる人と、そうでない人だ。 金のかからんのはおおむね目上の人、それから古くからの仲間だ。 先輩、上司にはおごってもらうことになる。 私はあまり「ハンカチだけ持って出かける」のは好きでないので、 カウンターで「小銭くらい出させてください」と端数を出す。 これについても、喜ぶ人と喜ばない人がいる。 喜ぶのはおおむね年の離れた上司で、喜ばないのは先輩だ。 これはだいたい、余裕の問題だろう。喜ばないのは気を張っているからだ。 余裕があると、「今日はとんかつな」とか「小銭くらいだせ」とか そんな感じで私の顔も立ててくれるわけだ。 何もさせてくれない先輩とかで、あんまり「秤が傾きすぎた」と感じると、 だいたい何かちょっとしたものを「差し入れ」することにしている。 どっちかというと、出かけるなら上司のがいい。 古くからの仲間とは、どちらの懐具合も如実にわかっているし、 だいたいどちらも相手に対しては気を使いたくないので 言いだす前からすべてのものが割り勘である。 この類の人がいちばん誘いやすいなと、最近ともに思う。 ちょっと金のかかる遊びにも、都合以上のものを考えず誘える。 喧嘩も派手にやれば、謝るときも打算がない。 ただこの友情を失いたくないというだけでいい。 さて、金のかかる方だが、これは年少者が多い。 というのは私は自分より目下の人と出かける場合、 できる範囲で自分が出すべきだと思うからだ。 これはもちろん、私がそう遇されてきたことによる。 しかし節約を旨とするようになると、なかなかお誘いは言いだせない。 スタンスを変えてしまえばこんなご無沙汰しなくてすむのだが、 そのへんはなかなか簡単ではない。難しい。 さて、このへんまで書いて思うのだが、 おごったりおごられたりは微妙に自分と相手の立ち位置測るところがある。 目上か、目下か。 出すことが失礼になるのか、出されることが非礼になるのか。 それはつまりは相手へのある種の行動の期待の縮小された表現だ。 目上の相手なら盆暮れのごあいさつはするべきだし、 目下の相手なら盆暮れの挨拶はあってしかるべきだ、ということになる。 要するに私は古い人間の習慣をしっぽとして持っている。 これは実際、私が考える以上に根っこの深いもので、 ある人に対して好感情を抱かなくなったきっかけというのは なるほどこういう期待を裏切られたというケースが多い。と思う。 しかしこういう足し算引き算的なバランスというのは、 自分と相手の考えとはまったく別だった、ということが多いものだ。 そのうちただの友情に落ち着いたら、なんもかんも楽なのにな。 -
|
|