終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年11月20日(火)

ムンクの記憶:

というわけで上野の西洋美術館でやってるムンク展に行ってきた。
装飾性をキーワードに、ということだったわけだが、うーん。
面白かったかと聞かれれば、まあそれなりにと答えよう。
「吸血鬼」「メランコリー」「灰」「マドンナ」「不安」「浜辺のダンス」
まあ代表的な作品がそろってきていたわけだから、そりゃそうだ。

ただ装飾性というキーワードが十分なカギだったかというと、
ちょいと役者が足りなかったのではないかと思っている。
むしろ風景、あるいは風景画として切ったほうが良かっただろう。

さて、それで気になった作品についてのべるより先に、
気になったことについて述べよう。
ムンクは同じモチーフを繰り返し描く。なぜだろう?
まるでイコンのようだ。まるで聖書から繰り返し引くようだ。
なるほどそれは聖書だったのだろう、かれの聖書、かれの「原典」。
だがそれはなんだ? ムンクに巣くっていた竜とはなんだ。

「頑丈なむきだしの腕――褐色のがっしりした首
 ――隆々たる男の胸板に若い女が頭をもたせかける――。
 女は目を閉じたまま震える唇を開き、
 その打ち乱れた長髪に囁きかける男の言葉に聞き入っている。

 私は、今見たとおりに――しかし、青味がかかったもやの中に
 ――形どるのだ。もはや自分自身ではなく、
 数限りない世代と世代とを結ぶ絆の一環にすぎない瞬間の二人を――。  人々はそこに聖なるもの、雄壮なるものを把握し、
 あたかも教会の中にいるかのごとく脱帽するだろう」

こうした確信なくしては、誰もこのように描くことはできない。
しかし疑問をはさむ余地のないこうした確信こそ病の一種でもある。
芸術家に世界を変えることはできない。


一枚の絵について述べよう。
それは雪景色のなか、見るもののほうに馳せ駆けってくる奔馬だ。
いまにも画面から飛び出してきそうに見える。
その背後には手綱をおさえられなかった男がいる。
はたしてこのように

このごとく

かれの絵はわれわれに語りかけてくるだろうか。
否、といいたい。この馬はかれの言葉だ。
かれは画面を脱することがない。


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