- 2007年09月17日(月) 遊び回り@覚え書き 「文楽 夏祭浪速鑑(なつまつりなにわかがみ)」(国立劇場) 念願だった文楽の公演に足を運んだ。いまもまだ感動がさめやらない。まったくなんたる美意識、なんたる美、なんたる洗練。 歌舞伎は江戸の芸だが、上方の芸はやはり文楽に止めをさす。そしてその洗練の度合いは、歌舞伎の比ではない。その理由だが、いつか書いた通り、人形は固有の身振りを持たない。かれらに見る身振りは、すべて与えられたもの。つまりわれらの認識のプールたる社会的類型から抽出され、そのうえに演者の肉体と精神が磨き抜いて与えたものだ。しかも物理的な制限は人間の役者に比べて遙かに少ないから、その身振りまた位置取りはより観念に属するものとなる。つまり演じうる範囲は人間に比べて広い。その自由さが、歌舞伎にはるかに勝る高度の洗練の可能性をもたらす。 まあ、小難しいことはもういい。義太夫の謡いと江戸ロックたる三味線、そしてあの美。「長町裏の段」で侠客・団七が悪舅を追いかけ回し、袈裟懸け切り捨て突き通しと惨殺する場面について述べるに止める。 団七は着物脱ぎ捨て朱色の越中ひとつでおっとり刀、全身の刺青を晒して縦横無尽に駆けめぐる。月代の青さは青く髪はざんばら乱れ波打ち狂乱。舞台は暗く、人形にのみ灯りがあてられてその姿は幽鬼のごとくにぼうっと浮かんでいる。一方、血塗れ瀕死ながらも必死につくばり逃げ回る悪舅の義兵次は血みどろ、血を吐きよたくり憎まれ口しようにも声もない。 井戸をはさんで突いたり切ったり逃げ回ったり、しまいに舞台前面にめぐって止めが刺され、義兵次が事切れるまで、早回しありコマ送りめいたスローモーションあり機微をつかんだ演出の粋が尽くされて、外法外道の悪夢に足踏み入れた団七の目から見たよう。そしてまた直後に舞台中央にねりこむ祭り御輿のカタストロフめいた視覚と聴覚への衝撃。初演の観客の茫然自失が忍ばれる。 場面そのもの、物語そのものを尽くしながら、それをさらに理想化しダイナミックに盛り上げ鮮烈にイメージ化する。映画的でもあり演劇的でもある演出がすでに元禄の頃にあったとは。まったく慨嘆のほかない。またすべての人物がきわめて鋭く類型化しながらも生活感ともいうべき息吹を強く持っていることにも驚かされた。江戸のころの堺の物音を聞く思いだ。 「菅原伝授手習鑑」(同) 上に比べればいささか大人しい感想となる。演出として目立ったのは静止とゆっくりとした動きであって、大仰な場面転換はほとんどないし、大立ち回りも耽美といいたいようなどぎつい演出もない。 淡々とした流れの中で、際だつのはやはり庶民の強さ活力と義理人情の圧迫であろうか。殺人事件の場面の精気はやはり、それが同時代に取材したものであったからではなかろうかと思わせる。 「福原信三と美術と資生堂」(世田谷美術館) 資生堂のPR史。産業デザインの歴史としては面白いものがある。 とはいえ天才の息吹はない。面白いのは、福原が当時パリに住んでいた藤田画伯との珍道中を書き残した絵日記くらいだろうか。 -
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