終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年07月16日(月)

 王はすすけた神殿の回廊のさなかに立っている。落城の町を包むあらゆる悲鳴と騒音はそこから遠い。だが祭壇の周囲に散らばりあるいは積み重ねられた死体から流れ出した血はその軍靴を踝までもひたし、人と家とを焼く煙は高い天窓から射し入る朝のうす青い光を薄く煙らせている。王は黄金作りの剣を支えに立ち、至聖所を無表情に眺め渡した。青ざめた頬にはいくばくか返り血が名残をとどめている。
 王はその薄青い目でもって、四肢を死苦に突っ張らせた若い女の死骸を一瞥し、次いで針鼠のように全身に矢を受けて絶命した兵士に視線を移した。次には萎んだ腹から腸をあふれさせた老人を、さらに首を落とされた男を。
 王は長い間、押し黙ったまま、そのようにして順繰りに死骸の上に視線をさまよわせていたがふいに頭を掲げて円柱のはざまに呼びかけた。
「おまえの崇める神々はどこにいる? おまえの愛する町がいまどのようになっているかを見よ。家々が焼かれ、老いも若きもことごとく殺戮されるさまを見よ。神々も私を止めることはできなかった」
 声は血だまりの上を渡って、ほのぐらい隅々にまで響いた。語るうちに王の頬には血の気が戻り、その目は隠しようもなく狂気を帯びて光った。
「どこにいる、おまえの神々はどこにいる? おまえが私を措いて選んだ神々はどこにいる? 見よ、わたしはおまえの聖なる家をおまえの民の血で満たした。いまもなおその血は流されている。おもてに出て、母の胸から奪われた幼子が、私の紋章を押した丸盾で押しつぶされる様を見るがいい。男を知らなかった若い娘たちが十人の兵士に犯され、しまいに剣で貫かれるのを見るがいい。家々が灯心草のように燃えて早暁を照らすのを見るがいい。すべてはおまえがあの日に口にした、たった一度の否のためだ」
 王は渇いた唇を舐めて、血だまりを引きながら前へ進み、やがてひたりと足を止めた。丸い巨大な柱のひとつの陰に、人影を見てとったため。
「そこにいる、そこにおまえはいるのだな? 私を憎んでいるか? いかなおまえといえど私を憎んだだろうな? それとも恐れているのか? かつては拒んだ俺の愛にすがって命乞いをしようと考えているのか? 無駄なことだ。なにもかも無駄なことだ。あのときの一つの否を取り消すすべはどこにもない。誰にもない。おまえにも、私にも」
 王は剣ゆっくりと握りしめ、だが進みあぐねたように立っている。苦悩と狂気はその面に激しく明滅した。どこか遠くで断末魔が上がった。
「私もおまえももはや無力だ。あの否はどのようにしても取り返しがつかぬ。世界のすべての血をもってしても洗い流せはせぬ。私はもはやおまえを愛しているのか憎んでいるのかさえ定かでない。この狂気の駆り立てるところにただ赴くだけだ。それが世界の果てであろうと行かねばならぬ。おまえの死に行き着き私の死に行き着こうとも行かねばならぬ。よかろう、認めるぞ。私は狂っている。あのひとつの否が狂わせたのだ。火矢がわら屋根を打ち抜くように、狼の牙が鹿の腸を貫くように、私に突き刺さったのだ。そして逆刃の矢のように抜くこともできず、その毒は私の全身に回ってしまった。そしてあらゆる価値あるものを腐らせた。誇りや慈悲、寛容がまずもって死に、次いで正義と憐れみが死んだ。残っているのは狂気だけだ」
 王は血を踏んで重い足取りを運んだ。一歩、二歩、そして振り返る。円柱の影に立っていたのは青ざめた女王だ。その目は見開かれてはいるがわずかも動かず、頬は青白く生きているものとも思われぬ。なにより胸に突き立った黒鷺の羽持つ矢。王は声もなく狂おしく目を輝かせた。毒蛇の毒にも似た苦しみがその全身を駆けめぐっているのは明らかだった。だがややあって、再び口が開かれたとき、その言葉は静かだった。
「おまえは死んだ、よかろう。もはや否ということもない。そうだ、おまえは死んだ。だというのに私の苦しみは少しも去らぬ。わかっていたのだ、おまえによって始まったのに、おまえによっても終わらぬ。それでは行きうるところまでゆくほかないではないか。よかろう、よかろう。世界を滅ぼしてやる。あらゆる美と財宝を葬り焼き捨てておまえの墓の上に投げ出してやる。世界をして瞠目させよう。一人の女のためにかつて捧げられたことのないほどに多くの供物を捧げてやろう。しまいに私自身を供物としてやろう」
 王はきびすを返した。死せる女王、うち捨てられた美、触れることのかなわなんだ宝石を再び顧みることはなかった。


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