終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年06月19日(火)

遊び回り@覚え書き

・映画「300」
おお、マッチョだらけ!(嬉々)

映画としてなら、すばらしいカメラワークと独特の雰囲気を挙げたい。
特にあのスローモーションの使い方は素晴らしい。
七人抜きだか十人抜きだかのシーンがあるのだが、
流れる時間は一定ではない。力感を伝えるということに焦点をあてた
数種類のスローモーションでまさに動きを見せている。
巨大な重い盾をはねあげる確かで様式的な強靱さ、
長い鋭い槍を突き出す一瞬の凄まじいまでの衝撃、
革の鞘から剣を抜きはなってなで切りする流れるような一連の所作。
こんな映像はもう、見ほれるほかない。

しかしながら、この「300人隊」について歴史上の挿話としてしか
意識していなかった私にとって、引っかかったのはやはりそれ自体だった。
「きちがい沙汰? それがスパルタだ」
物語が始まって間もなく、レオニダスはそう叫んでペルシアの使者を
深い巨大な井戸にけり込む。当時はまだジュネーブ条約はないが
使者に対する手出しはこれはもう、当然ながら御法度だった。
いかなる理由においても、これはきちがい沙汰だ。

それと同様に、不具、不健康で生まれた嬰児を殺害し
当時の概念でもって完全でなければ国民とはしなかったかれらの国も
私にいわせればその「超」完全さはきちがい沙汰だ。
それは合理性と肉体的健全さ、家族との愛情に富みながら
自らと国土を危険にさらすレオニダスに至って狂気ときわまる。
およそ人権などというものを私は信じていないが、
そしてまたスパルタの歴史的状況においてはそうした政治制度は
きわめて合理的であったとすら思量するものだが、
だがきちがい沙汰ということはこれまたったく疑う余地もない。

こうした背景において、退けられた「不具」であるせむし男が
超健全の代表格みたいなレオニダスとその300人隊を裏切り
クセルクセス王を裏道に導いて破滅をもたらした、という
この筋書きにはある種の愉悦をさえ感じる。
またそのように見るなら、そこで初めて
映画のなかでペルシア軍が不気味なフリーク連中の集合体として
描かれていることが納得できるのである。
300人とレオニダスが凝集された健全さのきわまった狂気であるなら、
敵対するものたちは、せむし男にしろイっちゃってるクセルクセスにしろ
なるほどそこから追放された無秩序と混沌でなければならない。

ここにおいて私はエントロピーの比喩をみる。
局所的なエントロピーの向上は、より広い意味での降下をもたらす。
そして無理にもつくられた秩序はいずれは滅びる。
だからレオニダスと300人の敗北と死は必然なのである。
300人の戦いとは、退けられた混沌と無秩序の狂気に対する
合理性と秩序のきわまった狂気の戦いであろう。
だからこそ残されるべきは武勇でなく死でなく、記憶だけなのだ。
ここにおいてせむしはやはり勝利したと思わざるをえない。
300人隊の戦いのことを思うにつけ、かれの名もまた思い出される。
ウェンハム扮する生き残った兵士のいう「神秘主義と専制主義」に対する
挑戦と勝利など、これに比べればまったく意味などないのである。

それとはまったく別に、王妃のその後について妄想した。
ネタバレだが、彼女は出陣前のレオニダスと寝るし(あたりまえだ)
裏切りものの議員セロンとも、かれの支援をとりつけるため寝る。
彼女がのちに妊娠していたら、どちらを子の父と思うだろう?
セロンの子を産むことを彼女が肯うとは思えない。
だがレオニダスの子であるかもしれない赤子を殺せるとも思えない。
腹の子に対する王妃の動揺と困惑と苦しみは
その子の生育にともなって育ち、彼女の胸をふたぐだろう。
またその子は、その子がこの答え得ない問いに直面したならどうだろう。
しかも勝利の絶頂にあるスパルタにおいて。王の家において。
これこそ考え込むにふさわしい問いである。


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ