- 2007年03月11日(日) アース・ソング: マイケル・ジャクソンが47歳ということは、少なくともデンジャラス(1991年)以降は私の記憶にあってもおかしくないはずだ。実際、記憶にないわけではない。親父は何枚かのCDを持っていたし、「マイケルはすげーんだぞ」的なレクチュアも受けた記憶がある。にも関わらず、路傍の石に対するごとく私は関心を抱いたことはなかった。 もっともそれは同時代の音楽シーンに対するにおよそすべて同じだった。マドンナを好きな友人がいて、彼女に金髪の派手なねーちゃんのジャケットのカセット(だったと記憶している)を見せてもらったことはあるが、肝心の音楽のほうはさっぱり覚えていないところをみると聞いちゃいねえ状態だったのだと思う。聞くというのは難しいことだ。 みんな、何がきっかけで、どうして音楽に興味を抱くんだろう? 私にとって音楽は長らく、じつに長らく、きわめて魅力に乏しい芸術であった。これはおそらく音楽が目に見えないものであって、私はというと視覚によって考え感知する人種であったということに結論されるだろう。実際、教師の授業、教科書のほうがよほど記憶に資している。 私にとって、感動はいつも静寂のうちにまた孤独のうちに来るものだった。わずかな伴奏は紙のこすれるおとぐらいなもんで、いつも音などないほうがいいと思っていた。誰もいないほうがいいと思っていた。コンサートにおける熱狂は遠いものだった。狂乱や失神といった種類のものは、理解の外にあった。これは苦い告白だ。 私はそういうものに憧れている。これは実際、正しい表現ではない。私はそういうものに渇いているのだ。音楽は何か本質的なものだと思う。音楽は何か本質的なものにつながるためのもの、一体になるためのなにか根源的な力であって、私はその資質を決定的に欠いている。リズム感がない人間というものはみんなある種、同じ事をいう。…「タイミングがとれない」 タイミング! 人を愛するタイミング、人を憎むタイミング、声をかけることさえ実にこのタイミングというやつに依存する! 私はけっして正しいタイミングを見いだせまい。私の体が骨の髄までビートに縁がないように。 こうした本質的な欠落を生きることは、実に苦いことだ。私のような人間は、おそらく自閉傾向(そんなものがあるならば)が強い。関係性においてきわめて不器用で、四次元的・継時的な意識がないから「飽きっぽい」といわれる。集中力はきわめて強いが、それは他者とつながらない。時間を無化はしてもそれを貫かない。そして言葉を聞き取るためには無意識であろうと努力というものを要する。 そしてまた時代性というもの、時系列におけるファッションやモードというものを私のような人間は把握しえない。なぜなら見よ、モードは常に移り変わり一定でなく捕らえがたく、しかもある特定の時点でさえそれはいわば蜘蛛の巣のように見えにくいからだ。 これは単なる努力の不足なのだろうか? だがそれにしては、どんなふうに努力すればいいのか誰も知らないようだ。そんなものは必要ないかのように。私はずいぶん努力してきたと思う。単純な積み重ねなら地続きだ。そんなのは私には問題ではない。だがここに溝がある。別にマイケル・ジャクソンのように歌いたいわけではない。音楽の力を感じたいだけだ。どうか教えて欲しい、リズムとビートについて。 つまりこういうことだ。How do you feel it? -
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