終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年10月25日(水)

善良であるということは、善良であろうとすることと一如だ。

天神様を相手に格闘しているのは承前だが、
骨休めもかねてちょいと一休さんの本読んだ。
気になったのは不殺戒の話で、これは簡単に言うと、


「一休さんは師匠とともに毎日ある樹の側を通ります。
 そのたびに蛇が出てくるのですが、
 師匠はお経を唱えて追い払っていました。
 ところがある日、一休さんは電光石火、
 隠し持っていた石を投げつけて蛇を殺してしまいます。
 師匠は『俊敏なやつだ』と一休さんをほめました」


まっすぐに読んだだけではなんのことやらわからない。
解説によると、こういうことだ。


 毎度まいど追い払って殺害という行為をよけ、不殺戒を守る師匠は、
 その都度に逆に「殺」という意識を生んでいる。
 一休さんは見ると同時に撃つことで心に「殺」を意識せず、
 かえって不殺戒を守ったのである。

 殺すという意識はあっても、殺すという行為はこの世にない。
 それはただ撃つという単なる一つの動作なのだ。
 これが禅の神髄だ。すべてのものなべて心によりて生じる。
 この幻影を離れ、真人たらんには、会うものすべてを滅ぼせ。


なんともはや。息を吸って吐くほどの鋭い論理だ。
この激しい、だが澄み切って淀みの入る余地もない思案の世界を
いったいどのようにして理解すればいいのだろうか。
そもそもこの流派は理解に対して拒絶の意志を示している。

ところで一休は、師匠曰く「羅漢」でもって真実の禅者「作家」ではない。
こう言われて、一休は「羅漢でけっこう、作家などにはならん」と言った。
すると師匠は「そこまでの覚悟があるなら」とお墨付きを与えた。
これもまたなにやら難しげである。いったい余人にうかがい知れない。

そこで最後に、よく知られた一休禅師の歌の一部を引きたい。





「一期は夢よ、ただ狂へ」(閑吟集)


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