- 2006年09月08日(金) 「竜は笑う。その笑いたるや地底の闇より吹き上げる冷風のごとし。 喨々として世界のすべてを静まらしむ。竜の名を死といふ」 『ヴィールジャーヤナ』(4世紀成立の北印経典) どうもいけない、彼のことを話そうとしていつも話がそれる。どこまで話したのか忘れてしまったから、思いついたところから話すことにしよう。 かれはこの地のすべての死者だ。だった、と言うべきかもしれない。あの寺院はもう焼け落ちてしまった。かれの行方を僕は知らない。あの夜大勢の軍人がやってきて寺を焼き、かれを連れ去って、あの奇妙な信仰はまったく跡を止めていない。あの土地に最初に作られた墓は、かれの親代わりだった老人のものだ。その男はかれを守るために最後まで戸口に立っていたから。 僕はやはり混乱している。だができるかぎり順を追って話そう。 あれは夕暮れだった。僕とかれは次第に影の伸びる寺院の庭に座り、石に彫られた怪獣の前で静かに話をしていた。彼は言った。 「アナタ イツカ イク」 その言葉はひどく悲傷に満ちて響いた。かれが人差し指を土の上に置いて円を描いたので、僕はその言葉の意味がわかった。つまりこういうことだ。かれにとって過ぎ去るものはなにもない。かれはこの地において唯一の死者だから、かれはなにかをなくすことがない。すべてはかれのうちに眠る。 だが僕はこの地のものではない。僕はほんとうの意味でかれが失う最初のものとなるのだ。そしておそらくただ一つの。そうしたことをかれは考え、そして喪失という言葉の意味とそれに伴う寂しさを知ったのだろう。 「ええ」 僕はぽつりと答え、かれの描いた円に交差する円を描いた。かれは少し考え込み、それから小さく笑って頷いた。 「星 ノ 軌道 ノ ヨウニ」 背をかがめてるかれは地面を見下ろした。交差する円はそのまなざしのもとでめぐる遊星となって、そして無数の星々が広がっていった。すくなくとも僕にはそのように見えまた感じられた。 「アア」 かれは呟き、低い声で、今度はこの地に音韻豊かな響きでなにか囁いた。落ちる、とか、乱れる、とか、そんなような意味だったろうか。かれが再び顔を上げたとき、その目の中にはこれまでに見たことのなかった鋭さがあった。何かを待ちかねているような、おそれているような。それでいて一言ももう何も言わず、立ち上がって、寺院の方に歩いていってしまった。 前兆といえばそれくらいだった。それと、あと数日前に見慣れぬ役人が来て町はずれの男の家を訪れていったことと。それだけだった。 -
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