終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年08月28日(月)



わたしはここにいます
ひるもよるもここにいます
ここにいるということに、やむことはないのです

たとえそれが檻のなかであっても
それがなんだというのです






てのひらの疼き

共感覚に興味があるのは、
つまり私が感情についてそのように知るからだ。

私が、自分が「悲しんでいる」と知るのは右のてのひらがうずくからだ。
私はそれを十数年単位における経験則によって知った。
つまり客観的に悲しんで然るべき時に必ずそれがあったのだ。
最初は「なんだこりゃ」というだけだったが、そのうちに了解した。
胸がうずくのならもっとわかりやすかっただろうが、
右のてのひらだから、これはいささか理解に時間がかかった。

怒りのときには一瞬、音が遠くなって言葉がもつれる。
これはそれなりにわかりやすい。
「言葉を失う」という慣用句を知っていたから。
打ちのめされるというのは頭の上のほうから血が引いて、
顔の温度がすっと引く。これもわかりやすい。

愛、は。
これはいまだにわかりにくい。
わかっていないかもしれない。

いわゆる上位の感情概念について、
このように不器用に類推にしか知られないこと。
これはなるほど、ある意味便利だが、ときどき不便である。
わけてもそれほどしばしばあるわけでない感情について、
見過ごしたり気づかなかったりしかねない。

いやむしろ、私は私の感情について、
無知に等しいのではないかと思う。
実に、じつにこれは、私自身の大きな欠落だ。

だから、共感覚というものがある程度解明されたら、
どの感情がどの感覚と関連づけられるべきかということについて
プリミティブであってもある程度の資料を得られるのではないか、と
そういうことを期待していたりするわけだ。


難しいかな。難しいだろうな。


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