- 2006年08月02日(水) 誰のため、という概念を欠いてすべては空しい。 町は誰のものか。人生は誰のものか。この国は。 それはまさに思考の主体から切り離しえぬものであって、 切り離すことは無意味でしかない。もしくは悪趣味でしか。 いわゆる「左」の人々が嫌いな理由はそこだ。 かれらはなにか絶対的な価値観があるように振る舞っていて、 ただ無意味に透明になろうとしているように見える。 国家が教育において大きな負担に甘んじているのは、 人材を求めてのことである。これは確かではないのか? 町が荒廃してゆくのはただそこがどうあるべきかという コンセンサスとそれに対する情熱が枯渇したからではないのか? コンビニ弁当で日々を過ごしながらも少しも自分を惨めとしないのは そうした己を愛着し、そうした己の形を是としているからではないのか? 正義はすべて「誰か」の正義だ。 そういう意味において9・11テロもレバノン侵攻も同程度に正しい。 ただ第三者がどのようにして判断するかもまた、 この込み入った世の中では一つの勢力であるというだけだ。 私がソフトな愛国心を抱いているのは、 この国という基盤、この国という後ろ盾なしに私がありえないからだ。 私は透明な存在ではない、私は概念だけの生き物ではない。 それだけだ。 -
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