- 2006年08月01日(火) どうせ1日18時間働くなら、勝ちたいものだ。 こういう感じが好きだ。 そうだ、誰もあてにはならない。 役所のかげの路地で、大切そうに長細い新聞紙の包みを両手に抱いてた老婦人と行き会った。彼女の包みは一見、たとえば生け花に使うなにか長い種類の花か枝かと思われたが、もうよほど近づいたとき、わたしはふいに、包みの先端のわずかの隙間から、とがった白木の板が顔を出しているのを見つけた。それからそこに梵字。つまり卒塔婆だった。 老婦人は誰の卒塔婆を抱いていたのだろう? つれあいか、それともさらに老いた父か母か、あるいは先立った子孫のものか。思うに、それが誰であったにしろ、老婦人の人生の少なからぬ一部を持って行ってしまったのだ。人生の一部、日々の一部、彼女自身のかけらを。 死者が懐かしいのはそうした理由によるのだろうと、老婦人とすれ違いながら私は考えた。かれらとともに残されるものの人生の一部もまた死ぬ。共有した歴史、時代、歌、日々、情欲、愛情、憎悪さえ、分かち合った相手の死によってもぎ取られていってしまう。老いていくのが寂しいのは、まだ生きているにもかかわらず、かれの生涯のほとんどすべてが先に逝ってしまって、なじみのない世界に残されるからにほかならない。かれにとって大切なものは、もう死のほうに行ってしまっているのだ。 わたしたちが死者を思うとき、思い出されるのは正確にはかれらの持って行ってしまった私たち自身の歴史と思いなのだ。このことが実証するのはなにか。なにもかも、まったく誰かのものであることがない。 なにもかも、ただ、わたしとあなたとの間にあったものなのである。 -
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