終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年05月24日(水)

『かれは一つの小川であった。
 奔騰し、輝きつつ飛沫を上げ、流れ急ぐ細く清い小川であった。
 かれは高い雪白の峰に端を発し、灰色の岩間をほとばしり抜けて、
 ひかり満つ緑の野へと喜びつつ流れ出でる冷たい小川であった。
 かれの美しさまた快活さは人の目と心をして喜ばしめた』



 そこまで書いて、マルチェロは老いた手を休めた。羊皮紙の上に独特の筆致でしたためられたそれは死んだ半血の弟に捧げるための短い文であった。
 いさかいも和解もすでに遙かな過去のものになりおおせていた。そうだ、なんとすみやかに歳月は過ぎ去ったのだろう。あれほど激しかった怒りも、紆余曲折も遠く過ぎ去って、もはや霧の彼方に見るようだ。
 あれらすべてはどこに行ってしまったのだろう? 重い憂いがマルチェロの胸を閉ざした。老いてしなびた手を胸の前に組み合わせ、かすみがかった緑の目を閉じた。燭台の上で炎は少しほとび、光はゆらゆらと揺れて粗末な庵の内部を照らした。灰色の木の寝台の上には少しのわらが敷かれ、小さな机を前にマルチェロが座している古い椅子よりほか何もない庵を。
 何もない。すべては行ってしまった。過ぎ去ってしまった。暗黒神の記憶を心にとどめているものは少なく、かつて法王の座を求めた野心ある男を覚えているものはさらに少ない。そしてその男が心に抱き、苦しみまた切望してきた思いと記憶をともにするたった一人はいましがた旅立った。
 いましがた、そうだ、いましがた知らせは届いたばかりだ。窓の外、高いサヴェッラの窓には明かりがついている。忙しく人々の立ち働く気配がその宮居にある。葬儀のため、そうだ、法王の葬儀のためだ。法王ククールの。人に愛され敬され、また人を愛し敬した希有な男の。
 マルチェロは震える吐息を吐いて、またペンを手にとった。



『だが歳月は速やかに行き過ぎおおせ、
 ついいましがた、豊かに水が陽気に走っていたとおもう間に、
 流れは早くも枯れ果て、灰色の河床を残すのみだ。
 どこへ行ったのか、あの銀なす流れはどこへ行ってしまったのか。
 あの快い水音は。汲んで口に含めばかすかに甘いしずくは。

 ああ、なべて流れは尽き、神のみすべての行く手に御手を広げたもう。
 茫漠たる海のごとく永久に座して、その深い懐に一切を眠らせたもう。
 そしてその御胸からは、再び立ち戻ってきたものはいない。

 かれを悼むことはない。かれの憂いは除かれた。
 その魂はいま、肉体から解き放たれて、空の上方を歩んでいる。
 私は悲しみにつくことなく、涙を流すことなく、憂いに沈むことなく、
 ただ天に上げられたるかれの憂いとならざることをのみ望む』










このときククール70才代後半、マルチェロ80才代前半。
ヨボヨボヨボ。マルチェロがはげたかどうかはご想像にお任せする次第。


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