終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年01月05日(木)

静寂で荒涼たる場所

グールドですよ!
とりあえず著作集(1、2巻)読み終わったので、
アマゾンで対談集と書簡集と発言集を注文しました。
届かないので『グレン・グールド論』(宮澤淳一著)読んでます。
メディア論からバッハ観まで整理されててわかりやすくていいな!
でもBGMは久しぶりにベーメさんのオルガンだけどな!

バッハがそうであるとグールドが信じたものについて考える。
それはただの超越者だったろうか? 荒野に叫ぶものだったろうか?
だが音楽はもっと多くのものを与えないだろうか、わけても耳ある人には。
グールドがバッハについて語った文章に、哲学的なものは少ない。
最初の「ゴルトベルク」のライナー・ノートくらいか。

「それは終わりも始まりもない音楽であり、真のクライマックスも
 真の解決もない音楽であり、ボードレールの恋人たちのように
 『とどまることのない風の翼に軽々ととまっている』音楽である。
 そしてそこには、直覚によって統合された調和がある。
 この調和は技と吟味から生まれ、感性された技能によって円熟し
 ここに、芸術のなかではきわめてまれなことであるが、
 意識下に描かれた構想の幻影としてあらわれている。
 可能性の頂点に立って勝ち誇りつつ」
        グレン・グールド、上記より結句を抜粋

とりあえず、ゴルトベルクについてはおいておこう。
ここではグールドがバッハをどう見ていたかが問題なのだ。
「意識下に描かれた構想の幻影」を実在させうる魔術師というべきか、
「始まりも終わりもない」奇妙な、生成すると同時に閉じた音楽の作者か。
つまり、だが、それはグールドにとって何を意味するのだろう?

彼は極北を目指していたということだ。
そこに、その場所にバッハを擬したのであろうとは容易に思える。
だがそのようにしてみたとき、バッハはどのように見えるのだろう?
目を閉じて考えよう。ああ、そうか。


静寂で荒涼として世に隔絶し、永遠であると同時に沈黙している。
それともこれはもはや私の視界か。


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