- 2005年12月27日(火) 普段はぺったんこのローファーかスニーカーしかはかないのに、 寒いからショートブーツ(3−4センチくらいのヒール)はいて、 足の裏が筋肉痛です。まあ、アレだ。全速力で走るからだが。 でもペタンコブーツって作業用の長靴かなんかみたいで どうもカジュアルっぽくて仕事にはいてけないんだよなーぁ。 ローラーブレードで出勤したい今日この頃です。(くそぅ) サロメに関する覚書: サロメはヨハネに恋するのではない。 彼女がヨハネと思うのはヨハネの教える神であって、恋と思うのは信仰の萌芽だ。サロメは神への思慕を聖者への恋と取り違える。彼女は信仰についての正しい比喩を持たないから、自身の感情や思惟を了解できないのだ。 彼女は正しい理解によって了解できない信仰を恐れ、また恋ではないことを正しく見通したヨハネによる拒絶と諭しに苛立ち激しい怒りを覚える。 怒りは名づけられない自身の感情への不安によってなおのことあおられ、傷ついた自尊心によって激しさを増す。そして彼女は歩み出る。七つの衣の舞いを舞うために。彼女はついにその最期まで過ちに気づかない。 マルチェロと法皇についての覚書: マルチェロは法皇を殺そうと思うが、殺したいのは法皇ではない。 殺害の動機は最初の殺人と同じことだ。宗教における嫉妬。マルチェロは考えている、法皇は神に愛されていると。それは法皇の穏やかさ、信仰の深さ、人々から愛されるその人望によって、マルチェロが感じたことだ。 マルチェロは法皇を羨んでいる。オディロを羨んだように羨んでいる。しかし法皇はいうのだ、苦しみふかきもの悩みふかきもの神を離れること遠きものこそ、神がもっとも愛し気にかけたもう(放蕩息子のように)のだと。 しかしマルチェロは、神の愛について正しい比喩を持たないために、法皇の言葉が理解できず、かえってくだらぬことを言うものだと殺意を深める。 最後に来るのは杖だ。杖はマルチェロの疑惑を確信に変える。ラプソーンはうそぶく、人が信じたがっていることを信じさせるのは簡単なことだと。 そしてマルチェロは夜半、法皇の部屋へ歩いていくのだ。冷静なつもりで正しいつもりで、神すらも自身を愛さぬということに絶望して。だがそうしたときですら、神はマルチェロとともにあって、傍らを歩くのではなしに、その身を背に負って生かせたもう。 …解釈なのです。すべては解釈だ。 音楽が録音という技術をグールドによって獲得し、本当の意味での時間性というものを徹底的に失い、かわりに哲学的とはとても言いがたい作業的な知性を獲得したように。それでいて現在もまだ再現芸術でありうるように。 イスラームにおいて、神をこの世ならぬ美貌の娘として、恋の憧れ悩みを信仰者の苦悩に置き換えた詩歌が流行った。ユダヤでは逆だ。信徒はシオンの娘たちであり、神=キリストは花婿だった。解釈なのだ。 それでいて私は、逸話、物の見方や解釈などの小難しいものに左右されない逸話というものに憧れる。東洋の文学の多くは逸話文学だ。ペルシャ、インド、中国、日本。筋立てではない、登場人物には個性などないようだ。ただ起きたことの気味の悪さや素晴らしさだけが魅力のすべてである。 -
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