終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年12月08日(木)

 鐘が鳴っている、聖母教会の鐘が。高いラの音で。応じるのは聖トマス教会の鐘のシの音だ。薄水色の黎明が明るさを増すにつれおいおいに町と近郊の群小の教会の鐘が加わる。無色の鳩の群のように、空に鐘の音は満ちている。今日も晴れるだろう。そうだ、今日は十一月最初の主日――…。
 マルチェロは目を覚ました。鐘の音はこの館に響かない。すべては夢だ。夢。遠い夢だ。繰り返し繰り返し、どれほど忘れようとしても、この季節に立ち返って憧れと憂愁で心を暗くする。
「…」
 寝台の上に体を起こし、寝巻きの上にガウンを羽織って立ち上がる。影の窓辺に立った。四囲に聳える壁は暗く冷たく、手をつけばそこから冷気は染みてくる。なぜ俺はここにいるのかと問うには、片時も離れず身に沿う背徳が暗すぎる。右手があまりに明瞭に記憶している殺人の記憶が暗すぎる。この罪は、薄れもせず償うこともできないのだ、おそらくは死に至るまで。世にただ独りあるような孤独にマルチェロはかすかに身を震わせた。慣れるにはあまりに苦しすぎた。苦しく、そして罪は重く。


 ミサのあと、マルチェロはひとしきり、列席した市会の理事たちや、聖歌隊員の父母である貴族たちの祝福の握手や賞賛の言葉を受けた。その後ろに低い声で囁き交わす人々がいたとしても、それはこのとき、マルチェロとは関わりないことだった。オディロは微笑し、高い天井に十一月の澄んだ冬の銀光は映えて美しく、オルガンは光り輝き鎮座して、人々は着飾っている。それで十分でないはずがなかった。
「いずれあなたの良い後継者となりましょう」
 ソロを歌う聖歌隊員の父親でもある中堅の貴族の言葉に、オディロはいつものように笑って、マルチェロは慎ましく傍らで頭を下げた。あるいはそこには幾分かの世辞も含まれていたかもしれなかったが、それでもそれは悪いものではなかった。挨拶を終えて貴族が踵を返し、マルチェロはようやく周囲にほとんど人影がなくなっていることに気づいた。聖歌隊席はがらんとして、ただ総譜だけがぽつんと残っている。
「おやおや、話しこんでしもうたのう、昼の会食に遅れそうじゃ」
「どうぞ、先に行って下さいませ。総譜を保管室に置いてから参ります」
「そうか。あまり遅くならぬようにな」
 オディロは頷き、見事な円柱が柱のように立ち並ぶ堂宇の向こうの出口へ歩き始めた。その背を見送って、マルチェロは重厚な内陣の中ほど、石造りの聖歌隊席の方に歩き出した。歩みながら、笑む唇に上るのは、今しがたこの壮麗な教会に響いた音楽のこだまだ。明るく澄んで清く、幾つかの特徴的な和音が宝石のようにところどころに輝いている。
 そのフレーズがどのように心に宿り、その響きに自ら心を動かされたことが思い出された。そしてまたいざ展開しようとしてどれほど悩み苦しんだか。何度となく挫折しかけ、だが夢寐にも忘れがたく、そのためにどれだけ思案を重ねて多くの展開の形を考えてやったことか。そしてこの日、それが形を得て堂々と響き渡り、曇りなく歌われた。喜びと勝利の感覚に酔いつつ、マルチェロは総譜を取り上げた。そのとき。
「―」
 呼ばれた名に、笑みを消しがたく振り返り――マルチェロは凍りついた。立っているのは背の高い男だ。立派な鬘に威儀を正し、旅装とわかるいでたちながら重厚で金のかかった衣服を着込んで。その襟元の紋章は。
「――」
 語られる言葉の半分も、マルチェロは理解しなかった。その男が誰であり、その男によってかつてなされた一つのことを思い出せばそれで足りたからだ。ほとんど凍りついたように目を伏せてマルチェロは立ち尽くし、時間の感覚さえ消え果てようやく顔を上げた。男の姿はもう見えなかった。
 時刻は真昼、だが光はどこか翳ったようだった。笑いや喜びの感覚はどこか遠く置き忘れられた。マルチェロはわずかに頭を傾げ、考えた。どのようにすれば速やかに確実に心臓を突き刺すことができるのだろうかと。




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「ミサ曲ロ短調」のキリエ第3部で、えらく泣けた。
もう泣けて、泣けて、仕方がなかった。
涙流して声上げて泣くなんて、これはもう、何年ぶりだろう。
古い傷がもいちど切り裂かれたように胸が痛んで。
重たいような悲痛なような旋律が辛くて、辛くて。

ずっと昔、子供たったころに、道に迷って夕暮れを歩いたときのようだ。


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